●百姓 ひゃくしょう
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古代は「ひゃくせい」,語源としては有徳の人を官に任じて姓を与えたことから発した語であるが,『易経』『書経』『論語』『孟子』『老子』など,中国古典では多くの人民・庶民を意味した。『続日本紀』の702年(大宝2)11月の条に,尾張・美濃・伊勢・伊賀などの国の〈郡司及び百姓〉に位を叙し,禄を賜うとあり,同書717年(養老1)5月の条に〈率土の百姓,四方に浮浪して課役を忌避して遂に王臣に仕へ,或は資人を望み,或いは得度を求む〉とあることからみると,一般「良」の有姓者−公民の総称で,部民や奴婢などの「賤」は含まれず,被支配者の班田農民をさしていたようで,古代社会の基盤層であった。『三代実録』の885年(仁和1)12月の条には〈彼国百姓の辛大甘秋子〉という表現があり,11〜12世紀間の成立とされる『今昔物語集』には〈大臣・百官及び百姓,皆喜ふ事限りなし〉とあって,被支配者一般をさし「民,百姓」の語も使われた。鎌倉時代になると,荘園領主側から武士(在方)・御家人・名主層・百姓などと身分序列が固定化してきた。摂津「多田荘荘務条々事案」(『川西市史』第4巻所収)1238年(嘉禎4)5月によると,所領安堵する者には下文を給わり,そのほかの者は百姓に落とし,御家人には田を給したとある。ここに士と農とを分離している。さらに在方においても,1261年(弘長1)12月北条政宗が子の北条時宗に出したと考えられる文書に,河内橘嶋庄地頭代・右衛門尉為保の申状があり,それに,〈名主・百姓等沽却有限,名々庄由之事〉とあって,ここに荘園制下に名主・百姓という階層分化があったことを示す。また百姓のなかにも農事に直接あたる一般百姓と,凡下・土民・作人・下作人といわれた隷属農民階層があり,さらにその下に売買・譲渡・質入れされる下人・所従という奴隷的百姓があり,百姓の語がそれら階層・階級の農民を総称する呼称となった。このように百娃はもとは必ずしも明確な社会的身分ではなかったが,中世に入ると身分と職業とが即応するようになり,百姓即農民というようになった。
南北朝時代以後,在地の農民が年貢や公事の徴収を請け合う百姓請(地下請)制度が広まったが,百姓を在地の耕作農民の総称に使っている。鎌倉初期の曹洞宗の僧,懐奘の著『正法眼蔵随聞記』には職業分類に〈田商士工〉の語があり,田はすなわち農・農民,すなわち百姓を意味していた。鎌倉末期から農民の地域的な自治組織が「惣」という名称で,畿内を中心に発達し,室町時代に入ると領主権力に抵抗するにいたった。土一揆の反乱が1428年(正長1)から1487年(長享2)の加賀の一向一揆ごろまで,激しく展開した。この惣の指導者は地侍的な性格をもつ国人,または国衆や有力農民で,このなかから名主・沙汰人・番頭・おとな・年寄などといわれた村役人を選出し,村掟を定めて自治制を強めていった。惣は元来,構成農民すべてが参加し,団結することが建前になっていたが,完全な平等組織ではなく,家筋や年齢によって差等があり,また外来者や下人らは,通常,惣からはずされた。
戦国時代になると,指導層のなかには領主化する者が現れた。また戦国大名の被官としてその家臣団に加わるものも出てきて,在地性が薄らいでいった。戦国大名はその財政基礎となる所領の検地を行ったが,とくに豊臣秀吉の手による1594年(文禄3)のいわゆる太閤検地(文禄検地)で,全国的に画一的な土地制度を樹立し,近世村落を確定し,村単位の貢租体制を確立した。検地で,当該村の作人(耕作農民)を登録させ,その耕作権を保障する反面,その耕作地の貢納責任者とし,百姓身分に決定し,当該村への緊縛を打ち出した。ここに中世以来の複雑な土地耕作を整理して,一地一作人主義を明確にした。さらにここに登録した百姓のなか,これまで有力百姓が零細百姓を圧制していたことを抑えて,小百姓の自立政策を建てた。すなわち百姓の戸口調査を行い,領主に夫役を出す家とその人数を定め,また1戸の家に2世帯以上住むことを禁じ,子弟に均分相続させる政策をとった。当該村に田畑・屋敷地をもち,夫役を負担する百姓を「本百姓」または「本役」,その半役分を負担する百姓を「半役」,耕作地や屋敷地をもたない小作百姓を「水呑百姓」または「無役」(柄在家)といった。これが百娃のなかでの身分階層であり,家格を示す指標となった。村役人や五人組の組頭などは本百姓から選ばれ,家格(役家)は世襲された。本百姓は古くは経済的に自主独立の自営農民であったが,その後の経済の進展に伴い,没落していったものがあり,役家株としての家格を売買譲渡することが行われた。一般平百姓が村役人や五人組頭になって家格を高めるためには,本役家としての株を求める必要があった。村の最高機関は村役人が主宰する村寄合であり,村極め(村定)などを施行して村政を取り扱った。
近世中期以降になって領主財政が困窮化してくると,徴税が過重になった。窮迫した百姓は,領主からの命令のままに重税を課してくる村役人に対して批判しはじめ,また村役人の村財政に不明瞭な点が露見してくると,村役人不帰依(リコール)運動をおこしてきた。世襲的な村役人制であったが,村役人への批判が高まると,形式的にせよ村役人の選挙制(入札)が行われてきた。この候補者は本百姓に限られた。村寄合や村の氏神祭のときなどの座席順は役家の序列で決められ,必ずしも経済条件(持高など)の甲乙によるものではなかった。領主側は村役人らの忠勤に対して,士分格を与えたり,苗字帯刀を許したりして,封建支配の末端権力者として抱き込んだ。村役人が村民の宗門改帳・五人組帳などの帳簿類の調整や領主側からの達しや触れの伝達,御用状などを通して領主側の情報や領内の模様などを逐一報告した。村役人は村の貢納の責任者であったから年貢の完納に努め,幕末ごろになると領主財政の困窮打開に協力して村民に調達講のような融資講に参加させたり,御用金に応じたり,金策に苦慮した。また,領主側の指示によって,村民の目につきやすい場所に高札場を設け,とくに重要な治安関係の取り締まりや緊急な事項を墨書した制札(高札)を掲げて,通行人に広報した。幕藩支配の経済的基礎は,百姓からの年貢収納にあったから,百姓身分を被支配者の首位においた。支配者は百姓の生活万般に厳しい制約を押しつけた。1643年(寛永20)3月,田畑が一部の農民に集中して零細農民ができ,貢納に支障がおこることを防ぐために田畑永代売買禁止令を出した。1673年(寛文13)には,農家の相続において,後継人に持地が小分けされ,経営規模の小さな小百姓ができて貢納に支障があることを恐れて分地制限令を出し,田畑1町歩,または高10石以下に分割相続することを禁じた。そのほか,田畑永代売買禁止令発令後の8月,年貢収入を確保するため,田畑作付の勝手作りに制限を加えたり,1649年(慶安2)2月の触書や五人組帳・宗門改帳などの「前書」に,農民生活や農業生産に細かい注意を規定し,年貢の完納を諭している。支配者の百姓に対する姿勢は,徳川家康の重臣本多正信の著本『佐録』にみえる〈百姓ハ財ノ余ラヌヤウニ,不足ナキヤウニ治ムル事道ナリ〉,越後長岡藩の儒者高野常道の著『昇平夜話』(1796,寛政8刊)に家康の上意として,〈郷村ノ百姓共ハ死ナヌ様ニ,生キヌ様ニト合点致シ,収納申付様ニトノ上意〉として,百姓は最低生活に甘んじるよう取り締まった。1869年(明治2)2月ごろの日本の総人口3,009万余のうち,平民人口は2,727万人余で90.62%,平民のうち農民人口は2,600万人余と推測され,全人口の85%を占めていたようである。
明治時代になって近代化がすすめられるなかで,1871年(明治4)9月田畑作付制限が撤廃されその翌年2月土地売買の禁を解いた。1873年(明治6)7月,地租改正条例が公布され,その2年後から約7カ年かかって全面的に地租改正が完了した。これによって従来必ずしも明確でなかった土地所有関係が,発行された地券をもつ者が所有権者(地主)となり,それによって納税者となった。しかし旧幕時代からの封建的な地主と小作関係は温存され,国家権力がこれを保護する形になったので,小作人の地位は低下し,寄生地主問題を生むにいたった。戦後の農地改革によって,耕作農民(小作人を含む)に土地所有権を認める自作農の創設をはかったので,封建的農村社会がようやく近代化に脱皮した。