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●ヒトラー

ヨーロッパ ドイツ連邦共和国 AD1889 ドイツ帝国

1889〜1945 ドイツの政治家。ナチズムの指導者にして第三帝国の独裁者であり、20世紀の最も悪名高い政治家の一人。

【誕生から政治運動に入るまで】1889年オーストリアの田舎町ブラウナウで下級関税官吏の子として生まれる。実科学校中退後ウィーンに出て画家になることをめざすが、美術学校入学に失敗して放浪生活に入る(1907〜13)。ミュンヘンに移住し(1913)、第一次世界大戦勃発とともに志願兵として戦場に赴き、伝令などとして活躍する(1914〜18)。大戦終了後はミュンヘンにもどって国防軍の情報宣伝係に雇われるが、同地の小さな右翼民族主義政党のドイツ労働者党(のちのナチス)と接触をもつにいたり、間もなくこれに加入する(1919)。

【ワイマール共和国時代】入党後のヒトラーは天賦の弁舌の才能を武器に党員獲得に大きな役割を果たし、党の独裁的指導者の地位に就く(1921)。1923年ごろにはミュンヘンを中心にナチス(正式の名称は1920年以来国民社会主義ドイツ労働者党)は5万以上の党員を擁する勢力に伸長し、これを背景にヒトラーはこの地方における右翼陣営の有力人物となる。だが、1923年11月8〜9日にバイエルン総督カールらをまきこんでベルリン共和国政府打倒のクーデタをおこすが、失敗に終わり、逮捕されて5年の禁固刑を宣告される(ミュンヘン一揆またはヒトラー一揆)。実際には1年間足らずに終わった禁固中に『わが闘争』の著述にとりかかる。1925〜26年に2巻本として公刊された『わが闘争』は、人種主義的世界観に立って反ユダヤ主義、民族主義的指導者国家の建設、東方への征服計画などを説いたものである。釈放された後のヒトラーは党の再建に着手し、党内のシュトラッサーらのいわゆるナチス左派を抑えつつ、若い活動分子を中心に指導者原理に貫かれた緊密な党組織をつくりあげる(1925〜29)。1929年の世界恐慌勃発後はナチスの勢力は飛躍的に伸び、1930年9月の国会選挙で第2党に、1932年7月の選挙で第1党に上昇する。1932年の大統領選挙に立候補したヒトラーは保守派のヒンデンブルクに敗れるが、1933年1月30日にいたり大統領の任命にもとづき自らを首班とするナチスと保守派の連立政権樹立を果たす。

第三帝国時代】政権獲得後のヒトラーはただちに独裁制樹立をめざし、共産党・社会民主党を弾圧し、ほかの政党を解散に追いこんで一党国家を実現する(1933年2〜7月)。この間、国会で独裁の法的基礎をなすべき全権委任法も成立させる(同年3月)。1933年末より1934年にかけてナチス突撃隊(SA)と国防軍との対立が尖鋭化するが、結局、1934年6月30日にレームら突撃隊幹部を殺害してこれに結着をつける。1934年8月ヒンデンブルク大統領が死ぬと自ら「総統兼首相」の地位につき、国防軍も彼に忠誠を誓って、ここにヒトラーを頂点とする独裁体制ができ上がった。

 秘密国家警察ゲシュタポ)や強制収容所の存在が象徴するように、ヒトラー独裁のもとでは国民の自由は抑圧され、また、ユダヤ人が迫害された。だが他方で、失業問題の克服や社会的階層秩序の流動化、そしてなによりも外交上の成功によって、少なくとも1937〜38年ごろまでのヒトラーが国民の相当程度の支持を得ていたことも見逃すべきでない。再軍備宣言(1935)・ラインラント進駐(1936)・スペイン内乱への介入(1936)・独墺合邦(1938)・ミュンヘン会談(1938)などの積極外交を展開したヒトラーは、1939年9月のポーランド進攻によって第二次世界大戦の勃発を招き、ヨーロッパを広範な戦禍に巻き込むとともに、ドイツを敗北に導いた。1944年7月20日には保守派がヒトラーの暗殺を含むクーデタ計画を実行したが、失敗に終わった。1945年4月30日ヒトラーはベルリンの地下壕で自殺を遂げた。

〔参考文献〕A.ブロック、大西平明訳『アドルフ・ヒトラー』、みすず書房

J.フェスト、赤羽龍夫他訳『ヒトラー』上・下、1975、河出書房新社

野田宣雄『ヒトラーの時代』上・下、1976、講談社

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