●非同盟主義 ひどうめいしゅぎ
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いかなる軍事ブロック・軍事同盟にも参加せず,自主的に外交政策を決定していこうという考えで,第二次世界大戦後,新興独立諸国の多くがとった外交政策の総称。ただし“非同盟”ということばは1950年代後半になってから使われるようになった。非同盟主義はしばしば世界平和をめざす理想主義外交とみなされるが,実際には主義といってもイデオロギーの要素は弱く,現実主義的な政策の集合と考えた方がよい。したがって,国際環境の変化とともに非同盟政策の実体も変化している。初期の時代には反植民地主義と平和共存をその基調としていたが,1970年代以降は南北問題に対する“南”の主張,すなわち経済的要素が強くなった。また非同盟は中立と混同されることがあるが,中立が紛争・戦争への不介入を意味するのに対して,非同盟は国際環境をつくり変えていこうという,より積極的な政策である。【起源】非同盟の起源はインドのネルー外交に求められる。その萌芽は独立前の1920年代の国民会議派の外交政策に関する決議のなかにすでにみられるが,明確な形をとったのは独立インドの外交政策においてである。インドは半世紀にわたる独立闘争の末,1947年に独立を獲得したが,国内には問題が山積しており,パキスタンとの紛争もつづいていた。したがって独立当初のインドは国際紛争に巻き込まれるのを極力回避したかった。とくに2大陣営のいずれかのブロックに属することによって,冷戦を身近に引き寄せることを恐れていた。このように1940年代のインド外交は孤立主義の色彩が強かったが,1949年に中華人民共和国が成立し,強力な統一国家中国が出現したこと,また翌年には朝鮮戦争が勃発してアジアに冷戦が押し寄せてきたことなどから,しだいに積極策に転ずるようになった。
【非同盟外交の展開】インドは朝鮮戦争の休戦交渉で積極的役割を果たすとともに,すでに独立を達成した他の新興諸国や,実際に民族解放闘争を戦っている勢力とのあいだに連帯の輪をひろげていった。1954年にはインドの積極的な働きかけによって中国とのあいだに平和五原則の合意をみ,平和共存を外交の一大原則として世界に宣言した。翌1955年,バンドンでアジア=アフリカ人民連帯会議が開かれ,29カ国が参加した。ここでは平和五原則を土台として,反植民地主義・平和共存を基調としたバンドン十原則が宣言された。この会議は非同盟会議ではないが,第1に参加国のほとんどが新興独立国であったこと,第2に上記の十原則を宣言したことの2点において非同盟運動にとっての大きなステップであったといえる。なお1950年代までに積極的に非同盟外交をすすめた国としては,インドのほかにエジプト・インドネシア・ガーナなどがある。
【非同盟諸国会議】1961年ユーゴスラヴィアのベオグラードで第1回非同盟諸国首脳会議が開かれ,28カ国が参加した。戦後まもなく東西両ブロックとの対立を深め,非同盟路線を歩んでいたユーゴスラヴィアが中心的役割を果たし非同盟主義はアジア・アフリカという地域主義を克服して普遍的性格をもつようになったが,まだゆるい連帯であって,第3ブロックの形成といった類のものではない。その後,1964年カイロ,1970年ルサカ,1973年アルジェ,1976年コロンボ,1979年ハバナ,1983年ニューデリーと首脳会議は数を重ねていったが,その間会議の性格もまた変化した。反植民地主義で出発した会議は植民地の独立がほぼ終了した1960年代半ばになると一時的停滞をみせたが,1970年代以降は発展途上国の立場を主張する場となり,経済問題に重点が移っていった。1979年のハバナ会議ではキューバの強引な運営で急進派と穏健派の対立が深刻化したが,1983年インドのインディラ=ガンジー首相が93カ国・2組織が参加した会議をとりまとめ分裂の危機から救った。その後加盟国は101カ国に増えたが,インディラ亡き後,非同盟運動がどのようなコースをたどるかは未知数である。
〔参考文献〕日本国際問題研究所『中立主義の研究』上下,1961
レオ=マテス,鹿島正裕訳『非同盟の論理 第三世界の戦後史』1979,TBSブリタニカ