●ヒッピアス
ヨーロッパ ギリシャ共和国 AD
アテナイの僭主ペイシストラトスの長子。父の死後僭主となった(在位前528/527〜前510)。トゥキディデスによれば,彼は内政・外交に意を用い,穏健な政治家であった。彼のもとでアテナイは経済的に繁栄した。彼と弟のヒッパルコスは芸術家を保護し,文化的にもアテナイを高めた。しかし内外の情勢は,しだいに僭主一族に不利になった。国内ではクレイステネスやミルティアデスに指導された貴族たちが活発な反僭主運動を展開し,国外ではペルシアの脅威がエーゲ海に迫ってきていた。このころ弟ヒッパルコスが貴族の1員であるハルモディオスに恋心を抱き,拒絶されてその妹をパンアテナイ祭から閉め出した。これが,ハルモディオスとその恋人アリストゲイトンによる僭主打倒の陰謀に発展したのである。結局,企てはヒッパルコスの暗殺だけに終わったが,ヒッピアスに恐怖を植えつけ,暴君に変身させるに十分な事件となった(前514)。武力で権力を奪回しようとする亡命貴族の試みは失敗した。デルフォイ滞在中のアルクメオン一族は神託の力でスパルタを動かそうと企て,クレオメネス1世の援助を得ることに成功した。最初の失敗ののち,2度目のスパルタ軍のアッティカ侵入は僭主一族をアクロポリス籠城に追い込み,ついに降伏させた(前410)。ヒッピアスはヘレスポントスのシゲイオンに退いた。アテナイの動向に危惧の念をもったスパルタは,彼の復帰を同盟会議にはかったがコリントスの反対によって失敗した。ヒッピアスは最後の手段としてシゲイオンからランプサコス,そしてサルディスのペルシア総督のもとに身を寄せた。彼の念願としたギリシア帰還は,彼の長年にわたるペルシアでの運動の成果ではなく,イオニア反乱に対するアテナイの援軍派遣がダレイオスを憤怒させたことによって実現した。前490年,いまや70歳にもなったヒッピアスは,ペルシア軍の先導役としてマラトンに上陸した。しかし彼の消息は,アテナイの大勝利とともに途絶えたのである。一説には,撤退途中にレムノス島で病死したといわれている。