●常陸 ひたち
アジア 日本 AD
現在のほぼ茨城県にあたる地域。東海道の終点の国。『常陸国風土記』には,古く足柄の岳坂以東を,〈我姫(あづま)の国〉と称しているが,このころは常陸といわず,新治(にいばり)・筑波・茨城(うばらき)・那賀(なか)・久慈(くじ)・多珂(たか)の国造国があったにすぎなかったと述べている。大化改新後,大和政権は総領を派遣し常陸国を置いたのである。『延喜式』によれば,新治・真壁・筑波・河内・信太・茨城・行方(なめかた)・鹿島・那賀・久慈・多珂の11郡よりなる。ただ,もとは石城(いわき)郡も常陸に属していたが,718年(養老2)石城国が新置されると,石城国に含まれるようになった。国衙は現在石岡市内にあり,付近に国分寺,国分尼寺跡が残されている。平安時代には親王任国とされ,常陸大掾がしだいに勢力を増し,大掾平国香は筑波西麓地をおさえた。一方,常陸介源義光の子孫も土着し佐竹氏を称し,北部7郡を勢力下に収めた。源頼朝は,佐竹氏を討ち,八田知家を小田に入れた。南北朝の内乱時に,北畠親房は小田坂にあって『神皇正統記』をまとめたのは有名である。関ケ原の戦い後,佐竹氏は秋田に移封され,水戸に家康の子を封じて親藩とした。その支藩,宍戸・府中をはじめ,土浦・笠間・牛久・下館・谷田部・下妻・麻生などに諸藩が置かれていたが,そのほかにも天領・旗本領が散在していた。明治の廃藩置県に,新治県と茨城県に分かれたが,1875年(明治8)新治県は廃され,茨城県に併合させられた。〔参考文献〕『茨城県史』
『新編常陸国誌』