●肥前藩 ひぜんはん
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佐賀藩・鍋島藩ともいう。歴代藩主は外様大名の鍋島氏。表高は35万7,000石。佐嘉郡を中心として肥前国11郡中10郡にまたがる。現在の佐賀県が大部分であるが,一部は長崎県となっている。寛永・正保期(1624〜47)に鍋島勝茂の庶子三人が大名とされ,小城(7万3,000石)・蓮池(5万2,000石)・鹿島(2万石)が支藩とされた。【肥前藩の沿革とその特徴】肥前一帯を支配する戦国大名であった龍造寺隆信が1584年(天正12)島津氏・有馬氏との戦いで敗死して以降,龍造寺氏遺臣のなかから頭角を現したのが,鍋島直茂(1538〜1618)であった。当初,隆信の遺児政家を擁して活躍したがしだいに主家を圧倒,1590年(天正18)政家を隠退させ,その子高房の後見となることを豊臣秀吉から認められ,事実上の大名となった。文禄・慶長の役では鍋島直茂とその子勝茂が佐賀勢を率い,朝鮮に出兵(その時,朝鮮の陶工を捕えて帰り,有田焼が創業された)。関ケ原の戦いでははじめ西軍に属したが,すぐ徳川方に加わり,立花宗茂を柳川に攻めることによって改易を免れた。その後,冷遇されていた龍造寺高房が,1607年(慶長12)江戸で妻とともに心中をはかり,亡くなるとその家を併合し鍋島勝茂(1580〜1657)は名実ともに肥前藩主となった。この成立過程にまつわり,高房の飼猫が化猫となって直茂・勝茂父子に復讐をくわだてるという形で,一般に流布した伝説が,いわゆる鍋島騒動である。肥前藩の特徴としては第1に三支藩のほかに「親類」(鍋島一族の四家)・「親類同類」(龍造寺一族の四家)と称する大身層が存在し,その知行地は本藩の支配権が直接におよばない,いわば自治領として存在していたこと,第2に,諸藩では禄米支給が一般化していったのに対し,肥前藩では原則として幕末まで地方(じかた)知行制がつづけられたこと,第3に,したがって蔵入地(藩の直轄地)が少なく,藩財政をまかなうため,年貢以外の財源として家臣からの献米が重視されていたこと,第4に,藩士の数が多く(1870年の華士卒族の全人口に対する比率は16.31%),多くの下級武士は農村に住み,耕作に従事したり,城下に住む場合も宿屋をはじめさまざまな商業を営んでいたこと,武士と町人・百姓の中間身分として被官と呼ばれる層があったことなどがあげられる。いずれも兵農分離が不徹底だったことに関連するが,龍造寺氏から鍋島氏への交代が実力支配による権力再編ではなかったこと,江戸時代を通じて転封にあわなかったことなどがその理由として考えられよう。
【藩政改革から明治維新へ】蔵入地が少なく,また筑前藩とともに「長崎御番」として隔年で長崎警備にあたっていたことなどもあり,当初から藩財政は苦しかった。大々的な藩政改革に着手するのは鍋島直正(隠居後は閑叟,1814〜71)が10代藩主となった1830年(天保1)以降である。藩校弘道館出身の有能な人材を登用し,機構改革を行うとともに,小農経営を確保するため,1861年(文久1)には地主の土地を藩が没収し,一定比率で田地主・小作人に分給する,均田制を実施した。また殖産興業による藩収入の増加をはかるため,有田焼や石炭(高島炭鉱など)などの藩専売を強化した。こうした利益を投入し,洋式軍事工業の導入や兵器の改良に努め,幕末諸藩中,最大規模の軍事力をつくることに成功,西南雄藩の一つに数えられるようになった。倒幕派は有力とはならず,明君として聞こえた鍋島直正の主導の下,公武合体論ついで公議政体論を藩論として,薩長の倒幕運動には同調しなかった。しかし戊辰戦争とくに奥羽戦争での軍事的活躍によって,新政府内で確固たる地位を築いた。薩長への対抗意識は消えず,1869年(明治2)の版籍奉還の上表では薩長土とともに名を連ねたが,1871年(明治4)の廃藩置県の時には,親兵を提出しなかったのもそのためである。直正自身,議定・開拓長官などを歴任するとともにその後援で江藤新平・大隅重信・副島種臣・大木喬任などが新政府高官として活躍した。