●ビスマルク
ヨーロッパ ドイツ連邦共和国 AD1815 ドイツ連邦
1815〜98 ドイツの政治家。【首相就任まで】シェーンハウゼンで,自らしばしばいっているように,純粋なユンカーの家に生まれた。ゲッティンゲン・ベルリンなどの大学を卒業し,官吏をしたのち陸軍に入り,父の死後,農場の経営に従事した。1847年,プロイセン地方議会議員となって政治活動を始め,翌年の三月革命で反革命・反立憲主義者として注目された。1851年,プロイセン代表でフランクフルトの連邦議会に出席し,オーストリアと対抗した。1859年ペテルブルク,1862年からパリ駐在大使となり,国際政治を身につけるとともに,単なるユンカー的閉鎖主義者からは脱皮していった。1862年,信任を得ていたヴィルヘルム1世に呼び戻されてプロイセン首相となり,現在必要なのは鉄と血であるという演説を行って鉄血宰相と呼ばれた。
【ドイツ統一】この演説で議会と衝突したビスマルクは,議会を無視して予算を通し,軍備拡張を強行した。その一方で,国際的地位の改善をはかり,イタリアやロシアと接近,1864年にはオーストリアと共同して対デンマーク戦争に勝利を得た。その上で,かねての計画である小ドイツ主義にもとづくドイツ統一への第一歩として,シュレスヴィッヒ=ホルシュタイン問題を口実にして,1866年に普(*印)墺戦争を行い,短期間でこれを破った。この講和を約したプラハ条約は,将来を考えてオーストリアに寛大であった。フランスのナポレオン3世がドイツ統一の妨害にでるのを予知し,エムス電報事件を契機に,1870年に普(*印)仏戦争を開始してフランス軍を破り,1871年1月に,ヴェルサイユ宮殿において,ヴィルヘルム1世を皇帝とするドイツ帝国を成立させ,自らも帝国首相を兼ねた。
【内政と外交】ドイツ帝国誕生後,大市民の力を利用してドイツの資本主義発展につとめた。これが与党としての国民自由党による社会主義者鎮圧法の発布となり,バイエルンなどの南部を中心に,根強く残るカトリックに対する文化闘争を行って,プロイセン的ドイツを完成させていく。一方,外交面では,フランスの復讐に備え,同盟・親善網を完備して,戦争政策をやめ,勢力均衡を利用して,武装せる平和を維持するのにつとめた。独墺同盟・三帝同盟・三国同盟・再保障条約が同盟網の中心で,ロシアを引きつけ,フランスを孤立させる狙いがあった。1878年にはベルリン会議を主催して,公正な仲裁人と称したが,彼の外交の本質は,すべての国と決定的な対立をもたず,また,すべての国と運命をともにするほどの親善さもないもので,小緊張を利用して大きな対立を避け,ドイツ帝国を育成することにあった。
【晩年】1870年代末より,自由貿易主義から保護貿易に転換するが,これは自国の資本主義的工業が,ある程度成長してきたためで,自由主義に立つ国民自由党とは疎縁になっていく。そのころから,アフリカ・南太平洋で植民地獲得に乗り出した。1888年,ヴィルヘルム1世の死去に伴い,フリードリヒ3世をへてヴィルヘルム2世が即位すると,若い積極的な皇帝と衝突して,1890年3月に首相を辞任した。ドイツ統一後,彼の辞任までのヨーロッパはビスマルク体制の時代といわれた。しかし,それは,彼の後任者カプリヴィのときに破れ,ドイツ包囲の体制が生まれてくる。彼の長子ヘルベルトも外交官であったが,比較的若くして死んだ。ビスマルクは『思考と回想』を残している。
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