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●ヒジュラ

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 移住を意味することばであるが,単に居所を変えることだけでなく,広義では古い人間関係を断絶して,新たな関係に移ることも含んでいる。宗教的な意味からは,622年ムハンマドのメディナヘの移住と,その前後の教友たちの移住をさし,一般に「聖遷」と訳されている。偶像崇拝の巣窟であったメッカで多神教を否定し,唯一神信仰を説いた預言者ムハンマドと,彼の教友たちは,当時権勢をほしいままにしていた多神教徒らから反逆者とみられ激しい弾圧の対象となった。さらに預言者の教えの根底にあった正義感は,社会的・道徳的価値観の変革を指向していたので,旧来の価値観の上に権勢を維持しつづけていたクライシュ族の大商人階級や,カーバ神殿の管理者らにとっては,危険きわまりない思想であり,迫害の真因はそこに存したのである。メッカにおける迫害に対処するために,一部のムスリムは,エチオピア方面に避難するものもあったが,状勢は一段と緊迫の度が加わり,ムハンマド自身に身の危険が及ぶようになった。他方,メッカの北約400kmの町ヤスリブ(後のメディナ)の住民は,毎年巡礼のためメッカを訪れていたが,彼らの町自体でも長年にわたるアラブ部族間の抗争の終止を熱望していたことから,ムハンマドの部族意識を越えた理念に関心を寄せ,抗争の調停者としてムハンマドと接触をとりはじめた。やがてヤスリブの民で入信するものが現れ,彼らは自分たちの町へのムハンマドの移住を依頼してきた。その移住計画が熟するまでに2年の歳月がかかった。まず,約100名の教友らをひそかにヤスリブに送り出し,最初のムハージルーン(移住者)とした。事態を察知したメッカ側は,ムハンマドの暗殺計画を立てるに及んだので,預言者はアブー=バクルと,その女婿アリーら少数の同志とともに夜陰に乗じてメッカを離れ,追跡者らの難を避け首尾よくヤスリブにたどり着くことができた。このヒジュラの日付については諸説があるが,622年9月20/24日とする説が有力である。しかしこの日付は,ムハンマドがメッカを離れた日ではなく,ヤスリブ到着の日であろうといわれている(ほかに6月28日,7月16日があり,後者はヒジュラ暦紀元1年1月1日にあたる日付である)。

 ヤスリブの人々は,ムハンマドとメッカからの移住者をあたたかく迎え,町の名もメディナ(アラビア語で“預言者の町”の省略形)と改め,ムハンマドは彼を支持した町の人々をアンサール(援助者)として,ムハージルーンとともに,新しいイスラーム教団国家の構成員とした。これにより預言者は公然と布教に挺身することが可能となり,イスラーム共同体(ウンマ)の核をメディナに誕生させたのであり,第2代カリフ=ウマル1世が,ヒジュラをイスラーム暦設定の基準としたのも,ゆえありというべきであろう。