●美術教育 びじゅつきょういく
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絵画・彫塑・工作・デザインなどの造形芸術を教育する分野で,演劇や音楽などを含んだ芸術教育の一部を形成するものである。ただ美術という名称であると古典的な絵画・彫塑のみがクローズアップされすぎるし,ひろがりつつある表現方法や領域に対応しにくいとの立場から今日では造形教育という呼称が一般化しつつある。わが国では幼稚園教育の「絵画製作」領域,小学校の「図画工作」,中学校の「美術科」,高等学校の「美術」と「工芸」が普通教育における美術教育である。小・中学校を例にとれば,扱われている分野は絵画・彫塑・デザイン・工作(中学校では「工芸」)・鑑賞であるが,大きく表現と鑑賞に大別し,既成の芸術ジャンルを超えて,児童・生徒の実態に対応していくことが考えられている。もちろん普通教育のほかにも社会教育的観点からの成人教育,さらには専門家養成を目的にする場合も広義の美術教育である。【美術教育の歴史】美術教育の始まりを単に表現にかかわる技能や技法の授受と考えれば,芸術作品の始まりと同時ということになる。私的な師弟関係の教育は綿々と有史以来つづいていたであろうし,近世のギルドを背景にした徒弟教育施設やわが国の芸道思想の流れのなかに,さらには今日でも特殊な専門家養成のためにはこの師弟関係が欠かせないと考える人もいる。専門家養成のための美術教育には多少なりともそのような状態がつづいている。しかし一般に芸術の教育的意義が認識され学校教育,とりわけ普通教育機関への導入ということを考えた場合には19世紀以降にまでその開花を待たなくてはならない。制度としての導入以前に理論的支柱を与えた人物としてルソー(1712〜78)は『エミール』(1762)のなかで描画に関して,自然に関与する一つの方途としてその意義づけを行っている。またシラー(1759〜1805)の『美的教育に関する書簡』(1795)ではギリシアの美にして善というカロカガティアの理想を基礎にして,美は結局のところ美しき魂の表出にほかならず,善は内的価値,美は外的価値とする考えが述べられている。これらの先人たちの理論的援護を受けて,最初に美術教育を幼児教育に導入したのはフレーベル(1782〜1852)である。彼は世界初の幼稚園を創設した人物として有名であるが,その教育方法の一つとして20種類におよぶ恩物と呼ばれる教具を開発したのである。恩物は幾何学的形態の積み木,針金材,おはじき,着彩された紙の板材などを含んでおり,子供はそれを自由に組み合わせて遊ぶというもので,今日のデザインや工作分野の源流とも考えられる内容を含んでいる。これらの理論と実践の結果,1860年にイギリスで小学校の「図画」が必修となり,1869年にフランスでも小学校に「図画科」が組み入れられた。同様にアメリカでは1870年,ドイツでは1872年にそれぞれ小学校の教科目となった。わが国では1872年(明治5)の学制発布によって上等小学で「幾何学罫画大意」が必修に,同じく「画学」が随意科目とされた。また同時に下等中学で「画学」が,上等中学で「罫画」が必修となった。このように19世紀なかごろから,各国で美術教育の絵画的分野が普通教育の正規の科目として扱われるようになったが,実際の指導は今日の美術教育とは大部趣きを異にするものであった。
【臨画・罫画】当時わが国で行われていた美術教育は,一言でいえばお手本主義の教育であった。ヨーロッパにおいても臨画もしくは罫画は一般に行われており,その源流は画家ギルドの徒弟制のなかにみられ,しばしばミケランジェロ(1475〜1564)の作品がお手本にされたという。わが国でも初期の教育方法は大家の名作を下敷に,忠実にそれを模写することが要求された。当時最も重要な技法書は『西画指南』(1871,明治4 前編,1875,明治8 後編)で西欧方式による本邦初の図画教科書となった。臨画というのは結局のところ教科書にある著名な作品を模写したり,基本的な線のひき方などを学ぶものであったが,下敷となる絵は時代とともに変化していくものであった。わが国の美術教育界に大きな影響を与えたフェノロサ(1853〜1908)は1878年(明治11)に東京大学教授として来日し,日本美術,とくに狩野派の画風に共鳴し,日本美術を再認識すべしという意見のもとに毛筆画の教育を主張した。当時はすでに画材として鉛筆が一般化しつつあり,西欧化をすすめていた当時の美術教育界に国粋主義的風潮を生み出した。この結果1888年(明治21)には毛筆画を中心にした教科書が出現し,一時は鉛筆画教科書をしのいだ。しかし,示された題材はといえば「富士に霞」とか「月に雁」のような因習的なモチーフを大家が少し簡略にしたものであって,児童の発達や興味はかたわらにおいやられていた。臨画と並んで当時一般的であった教授法に罫画がある。これは方眼状のマス目の上に描かれた図形をマス目を手がかりにしながらひき写すというようなもので,幾何学的図形や用器画といわれる分野でしばしば用いられた。臨画にせよ罫画にせよ子供の自由な創作意志が働いていないことはいうまでもない。
【児童美術への新しい認識】既述のような美術教育に決別することになったのはチゼック(1865〜1946)の実践である。彼はすべての子供がそれぞれの個性をもっていること,子供自身に自らの技術を発見させるべきだとの主張をした。彼の指導による子供の作品はロンドンやパリで展示され,大きな反響を呼ぶこととなった。オーストリアで彼がこのような教育実践をしているとき,ドイツには一連の芸術教育の運動があった。これは一般にドイツ芸術教育運動と呼ばれた。ドレスデンで第1回の芸術教育大会が1901年に開催され,1903年にワイマールで第2回大会,1905年にハンブルクで第3回大会が開かれた。この運動は『ドイツ少年の芸術教育』(1893)とか『芸術家としての児童』(1898)などの著書を媒介にした大きな運動で,ドイツロマン主義のなかから生まれたミューズ教育運動の流れのなかにあった。つまり,産業革命と技術の高度化に伴い生産場面における分業化がすすみ,それが分断された人間をつくり出すと考え,調和のとれた人間像を探し求める努力が大きな運動につながっていったのである。そこでギリシア神話の9人のミューズになぞらえて,だれでもに歌い,踊り,描き,つくり,文を書くという総合的な芸術教育を施そうとする芸術教育運動となって花開いたのである。ここには単に美術という狭い領域から飛び出した芸術教育の総合的な主張があった。しかしこの運動によって美術教育もより広般な教育的背景を与えられたと考えられる。このような19世紀から20世紀初頭のさまざまな主張と実践は当然わが国の美術教育にも大きな影響を与えた。
【自由画運動】臨画や罫画による教育は明治時代を貫くものであったが,1910年(明治43)に出された教科書『新定画帖』は時代を画するものとなった。この教科書はアメリカの教科書を参考にしたもので,児童の心理的発達を考慮し,臨画中心の教育から記憶画や写生への移行をはかったものであった。しかし多くの学校では教科書と同大の「練習帖」に描き写すことが行われており,意図が十分に伝わらないことが多かった。このような状況のなかでいわゆる大正デモクラシーの時期を迎えることになるが,山本鼎(1882〜1946)の手になる『自由画教育』(1921,大正10)はわが国美術教育界に大きな影響を与えた。山本鼎は1912年に油絵研究のために渡仏し,帰朝後長野県神川小学校を舞台に自由画教育の普及に努めることになる。彼の主張は前掲のチゼックの主張に近く,技法に関することには指導をせず,自らで技法を発見していくことの大切さを説いたのである。学習者の“自由”を最大限に保証する児童中心主義的な教育観はもちろん大正デモクラシーの産物ではあったが,その主張は美術を専門としない一般の教師には理解されることが少なかった。また,自由を強調するあまり,教育の内容や方法が漠然としているために全国的な運動とはならなかったようである。第二次世界大戦後,それまで別々な教科目であった「図画」と「工作」(もとは「手工」という名称であった)が統合されて,今日の普通教育における美術教育の骨格ができてくるわけであるが,この間に新しい多くの考え方が輩出した。リード(1893〜1968)はユング(1875〜1961)の心理学を背景に“美術の教育”ではなく“美術を通しての教育”を主張したし,アルンハイム(1904〜)はゲシュタルト心理学を作品の視覚的分析に応用した。またローウェンフェルト Victor Lowenfeld(1903〜61)は子供の造形能力の発達段階について大規模な報告を行った。
【美術教育の課題】今日の圧倒的な視覚情報の氾濫のなかで,かえって子供たちは自分を適切に表現する意欲と方法を失っているように思われる。つくられた造形世界の単なる享受者,つくられた製品の単なる消費者であることから,対等につくり,つくられる世界に参加する子供の教育に美術教育は重大な鍵を握っている。したがって美術というよりも,広い造形活動をめざさなければならないともいえる。
〔参考文献〕村上陽通『造形教育の系譜』実践造形教育大系6,1982,開隆堂出版