●ビザンツ帝国 ビザンツていこく
ヨーロッパ ヨーロッパ AD330
コンスタンティヌス大帝によるコンスタンティノープル開都(330年5月11日)に始まり,オスマン=トルコのスルタン,メフメト2世の攻撃に敗れ(1453年5月29日),トルコ領となるまでのローマ帝国東方領をさす。したがって東ローマ帝国とも呼ばれる。が,首都コンスタンティノープルの前身がギリシア植民市ビュザンティオンと称したところから別名ビザンツ帝国と呼ばれることが多い。この帝国は政治・社会・経済制度はローマ帝政末期のそれを継承し,文化的にはギリシア・ヘレニズムのそれを踏襲し,宗教的にはキリスト教を国教として出発した。初期には公用語としてはラテン語が使用されたが,一般にはギリシア語が使用される,という二重構造がみられた。ゆえにこの帝国はローマ帝政末期の東方領の延長であり,また同時にその変身した姿である,ともいえた。帝国の皇帝はローマ皇帝を名のり,ビザンツの人々もまたローマ市民の末裔をもって任じていた。いわゆる古代末期と重複するビザンツ帝国の開始をどこに置くかは議論の別れるところであるが,現在ではおよそ次のような3区分(初期・中期・後期)が多数の支持を得ている。すなわち初期(330〜610)・中期(611〜1204)および後期(1205〜1453)。さらに中期を前期(611〜1025)と後期(1026〜1204)に再区分するのである。本項でもこの時代区分に従っている。
【初期】ローマ帝国が行政上東西二つの領土に別れて分割統治されるのはテオドシオス1世帝の死後(392)であり,これをもって領土的にはビザンツ帝国が確定することになった。ローマ帝国東方領とは今日のドナウ川以南のバルカン半島と小アジアおよびエジプトをその主要領土としていた。ダキア・マケドニア・アシアナ・ポントゥス・オリエンス・トラキア・エジプトと呼び慣らされたこれらの地域は,初期にはいわゆるディオクレティアヌス=コンスタンティヌス体制により統治されていた。そこではビザンツ皇帝は行政・司法・立法における最高権力保持者であり,また陸・海軍の総司令官であると同時に総主教よりも優位にある霊性をも認められた存在であった。皇帝はコンスタンティヌス大帝以来“地上における神の代理者”として君臨していた。したがって帝国の支配構造はすべて皇帝を頂点に中央集権的に組み立てられていた。国政の中心は宮廷にあり,最終決定を下す皇帝には宰相・大蔵大臣・宮廷財務長官・宮廷長官・侍従長らの顕官が補佐役を務め,これらの顕官のもとに多数の官僚が複雑な階級を構成しながら活動していた。皇帝にはさらに公的な諮問機関として元老院があった。元老院は政権の危機・交替あるいは皇帝不在の際にはたびたび軍隊同様に決定的な役割を果たした。首都を除く全領土は民政上の領域と軍政上の領域に重複して区分された。すなわちどの地域も文官と武官の二重支配を受けていたのである。民政上はまず帝国は二つの州(オリエンス・イリュリクム)に大別され,オリエンス州は五つの官区(エジプト・オリエンス・ポントゥス・アシアナ・トラキア)に,イリュリクム州は二つの管区(ダキア・マケドニア)に再区分され,さらに七つの管区は多くの属領に再分割されていた。たとえばオリエンス管区は16の属領に再分割されていたのである。こうした属領の数は6世紀前半の帝国では64を数えたという。軍政上は5人の元帥が皇帝の指示を仰ぎ,二人は首都に駐在し,残りの三人が三つの軍区(オリエンス・トラキア・イリュリクム)を指揮した。国境警備軍と首都にあった精鋭部隊が軍の主力をなし,これに同盟関係にある異民族の応援部隊などが加わり,5世紀初頭の記録によれば名目上50万に近い常備軍があったという。国政の中心である首都はコンスタンティヌス大帝により開かれたが,その最終的規模はテオドシオス2世帝の二重の城壁の完成(413)をもって定まった。首都は西のローマと同じく行政上・軍事上特別区とされた。そして皇帝の信任の厚い,法律に通じた元老院議員が首都総督に任ぜられた。彼は首都の治安維持,住民の裁判権と一般行政上の諸案件の処理,食糧確保や商業活動の規制や保護,果ては大競技場の競技運営にいたるまでの幅広い職掌をもって市民生活に関与したところから町の父とも呼ばれた。
帝国の対外関係はその立地条件からして,つねに多面的であることを余儀なくされた。東方では前代からササン朝ペルシアとの抗争がつづいていた。抗争は6世紀後半に頂点に達し,7世紀前半に帝国の勝利に終わった。が,ただちにアラブ勢力がこれに代わって台頭してきた。すなわちユリアヌス帝の戦死の後,対ペルシア戦は一進一退をたどり,ユスティニアヌス1世帝のとき一時的に和平条約の締結がなった。が,7世紀初頭のホスロー2世は小アジアの帝国領内に侵入。ヘラクレイオス帝は3度にわたる遠征をもってこれを討ち,ニニベの戦い(627)で最終的な勝利を収めた。が,その9年後にはアブ=ベリール麾下のイスラーム軍が破竹の勢いで帝国領シリアに侵入。ヤルムークで対決した皇帝軍は大敗し,7世紀前半から帝国はその命運をかけてイスラームと対決することになる。バルカン半島では4世紀のゴート族の南下,5世紀半ばのアッティラ麾下のフン族の来襲を切り抜け小康を保つが,6世紀の後半に入るとアヴァール族やスラヴ族などの異民族が防備の手薄なドナウ川沿いの国境防衛ラインを破って南下を始めた。マウリキオス帝のときバルカンの主要都市シルシウム・シンギドゥヌムが相次いで陥落。7世紀前半の本格的なバルカンのスラヴ化を準備するのである。この時期にあって帝国が攻勢に出られたのは西方においてのみであった。すなわちユスティニアヌス1世帝によるローマ帝国復興の大計画の実施であった。北アフリカのヴァンダル王国(534)・イタリアの東ゴート王国(552)・地中海の島々とともにスペインの西ゴート王国の一部(554)が再び帝国領となった。が,それらも同帝の没後は再び異民族の侵略の的となったため,マウリキオス帝はラヴェンナ(584)とカルタゴ(591)に皇帝代理として総督を置き,総督府を通じて領土維持をはかった。 ビザンツ帝国初期の宗教史の最大の課題はキリスト信仰における正統論(ニケーア=コンスタンティノープル信経)の確立にあった。そのためには従来のローマ帝国の国教であった信仰を禁じ,他方キリスト教における異端信仰を排除する必要に迫られた。すなわち三位一体論を正統と認め,アリウス派を異端としてしりぞけた第1回ニケーア公会議(325),さらにこれを確認した第2回コンスタンティノープル(381),ネストリウス派を異端とした第3回エフェソス(431),ネストリウス派およびキリスト単性説派を異端とした第4回カルケドン(451),そしていわゆるニケーア=コンスタンティノープル信経を再確認した第5回コンスタンティノープル(553)の各会議をもって正統信仰の確立は達成されたといえよう。というのも異端派の根強く残っていたエジプト・シリア・メソポタミア・アルメニアなどの地域は7世紀前半には相次いで帝国領外に去ってしまうからである。が,それよりさき,異端の烙印を押されたコプト教会やアルメニア教会は5世紀にはコンスタンティノープルの皇帝の支配を逃れ東方分離教会として独立し,自らの正統性を主張していた。6世紀にはこれにシリアのヤコブ派が加わるが,これらの異端諸派はキリスト教正統派の人々による異端弾圧に苦しむよりも,イスラーム教徒の宗教的寛容のもとに生きることを望んだ。ここにイスラーム勢力がきわめて短期間に帝国領に侵略できた一つの大きな原因があったといえる。またゼノン帝は正統派と異端諸派の分裂を防ぐため「ヘノティコン(統一勅令)」を発布し(484),双方の融和をはかるが,これは双方の反発のみでなく,ラテン教会からも反対され,いわゆるアカキオスの分裂と呼ばれる東・西両教会の初の分裂(484〜519)を生んだ。
西のローマと異なり二重の城壁に守られた首都はよくギリシア・ヘレニズム以来の文化的伝統を断絶することなく保護・育成することができた。ホメロスやヘロドトスといったギリシア古典文学の巨匠たちの文体と用語にならって多くの作品が書かれた。なかでも6世紀のプロコピオスの戦史(8巻)はこの時代を代表する大作である。同じころ総主教ヨハネス3世と同一人物と目されるマララスによる口語体の年代記(18巻)が大衆読物として人気を集めた。ここにビザンツ文学における二つの潮流,文語体と口語体の原型ができあがった。第2の特色としてキリスト教の国教化とともに新領域が開拓された。教会史(エウセビオス)・神秘学(偽アレオパギタ)・説教集や聖書解釈学,それにキリスト論(ヨハネス・クリソストモス・カッパドキアの3教父)・教会法の編さんなど枚挙にいとまがない。第3には二つの大きな法律全集・テオドシウス法典(438)とユスティニアヌス1世帝によるローマ法大全(528〜534)の編さんがある。とくに後者はローマ法の集大成として近代ヨーロッパ諸国の法律制定に大きな影響を残した。
【中期】ディオクレティアヌス-コンスタンティヌス体制をもって出発した帝国は7世紀に集中しておきた外敵の領内侵入を契機に中央と地方の支配体制を変えることになる。中央におけるロゴテシア制,地方におけるテマ制の登場である。契機となった対外要因の第1は7世紀前半から200年に及ぶイスラーム教徒との闘いであった。ヤルムークの敗戦後破竹の進撃をつづけたイスラム軍はシリア・メソポタミアを抜き,小アジアを一路首都にむかって進撃。7世紀半ばには帝国の穀倉エジプトも失われた。ウマイヤ朝の創始者ムアーウィアはイスラーム始まって以来初めての海軍を創設,海路からも首都を狙った。672〜718年の毎夏の首都攻撃,717〜718年にかけての首都包囲戦は帝国にとって最大の危機であった。その後も戦闘はつづき,帝国が攻勢に出られるのは9世紀後半からであった。第2の対外要因は第1次ブルガリア王国(681〜971)の帝国領土内の樹立である。7世紀半ばバルカン半島北部に登場したブルガリア族は南下をつづけ,コンスタンティヌス4世の遠征軍を撃破。アスパルーフ王のとき独立国家を樹立。とくに9世紀初頭のクルム王,つづくシメオン王の二人はたびたび帝国を苦境に陥れた。第3の要因はスラブ族のバルカン半島における定住である。7世紀前半に始まるバルカンのスラヴ化は帝国の行政・軍事網を寸断した。が,スラヴ族は自らの独立国家を建設することなく,かえってギリシア民族との融合をはかったので,帝国は解体を免れた。そして9世紀初頭に入ると南ギリシアの地から徐々にスラヴ化された地方のギリシア化が始まり,バルカンのスラヴ民族がギリシア正教圏の一員となる途が開けた。
7世紀に始まる戦乱の2世紀は帝国の行政・軍事機構に大きな変革をもたらした。中央・地方ともに軍事色が強化された。すなわち地方では前時代の文官と武官による二頭支配から一地域の行政・軍事権を一手に握る軍司令官の単独支配への転換がそれである。いわゆるテマ制度ないしは軍管区制度の登場である。屯田兵に似たテマ兵士は国有地の下賜を受け,平和時には農民として国家に一定の税金を支払い,戦時には兵士として出征して行った。強大な常備軍を失った帝国に残されたただ一つの自給自足を原則とする国土防衛のための非常手段であった。これにより戦闘士気の低い外国人傭兵を高い給料で傭う必要がなくなった。また平和時にはテマ兵士の納める税金で国庫収入も増加する,という利点も生まれた。テマ兵士の身分は世襲であったため彼らの住みついた土地は強固な防衛ラインであるとともに,すでに8世紀のころより顕著となる大土地所有者層の増加に対する大きな歯止めの役割を果たすことにもなった。テマ制度は外敵の侵入の最も激しかった小アジアに始まり(7世紀前半),9世紀初頭にはバルカン半島にも設置された。テマ制度はビザンツ中期の繁栄を象徴するマケドニア朝の軍事・行政・経済上の基礎でもあった。テマ制度の消長は実に帝国の消長でもあった。
こうした対外危機の増大は中央の官僚組織にも影響を与えた。ディオクレティアヌス-コンスタンティヌス体制のなかから税務と軍務に関係する部局が急激に発言力を増すようになるのである。ロゴテシア(会計係)制度と呼ばれるこの新体制は文字通り会計専門官たちを中心としたものであった。その主要ポストの一つは大蔵大臣で,税務局長と軍政局長をその支配下に置き,国庫の収入と支出を監督した。第2の主要ポストは旧体制の駅逓局長から昇格した外務大臣のポストであった。敵国および敵軍の情報の収集・友好国との交流・一般的な外交交渉をはじめとし,対外情報を最も早く,正確に皇帝に伝達するポストであった。ビザンツ帝国は時代の要求に応えてその中央集権体制の枠内で行政・軍事機構を柔軟に改革していったが,まさにこの適応性こそビザンティン帝国の生命源の一つであった。
かくして対外危機を乗り越え,行政改革を成し遂げた帝国はバシレイオス2世のときアルメニア・小アジア・シリアの沿岸部,ドナウ川以南のバルカン半島を再び帝国領とし,ユスティニアヌス1世帝以後の最大の領土を得た。内政・外政の比較的平隠な時代に恵まれたマケドニア朝(867〜1056)は帝国の一大繁栄期であった。
ギリシア正教の国内・国外における繁栄と普及もイスラーム教との交流により触発された聖画像論争(726〜787,815〜843)に終止符が打たれた後に訪れたといえる。すなわち描かれた聖画像に神性を認めず,人間の純粋な心のなかにだけ神性を認めようとしたレオン3世,その息子コンスタンティヌス5世はともに軍人皇帝としてより純粋な形でのキリスト信仰を追求した。と同時に,大土地所有者層に属して久しい聖職者や修道士たちから広大な所領や莫大な財産を没収し,これらをいわば社会に還元させようとした。一般民衆や修道士層の根強い反対にあって結局は聖画崇拝論が認められることになるが,約1世紀にわたったこの論争はまさに国論を二分する激しさをみせた。またそれまではつねにキリスト教世界におけるビザンツ皇帝の指導的地位を認めてきたローマ教皇もこれを機に離反し,新生フランク王国のカール大帝にその庇護者を見出すことになる。キリスト教世界はなお一体である,と理念的には了解されながらも,この世界は現実にはカール大帝の戴冠以後ラテン的キリスト教世界とギリシア的キリスト教世界の二つの世界に分裂し,以後それぞれが独自の道を歩むことになる。ビザンツ帝国はスラヴ民族の布教を通じてギリシア正教文化圏を決定的に拡大する。9世紀後半のスラヴの使徒,キュリロスとメトディオスによるキュリル文字の発明とこれをもとにした布教。10世紀半ばのキエフ公国の女王オルガ受洗さらにはウラジミール王のキリスト教の国教宣言(979)によりキエフ公国も帝国の有力な衛星国家の一員となった。
戦乱の数世紀をへた9世紀から11世紀前半にいたる200年余は文化・芸術の繁栄期であった。コンスタンティヌス7世は学者・文人たちとともに古典ギリシア以来保存されてきた諸文芸・諸学問の知識を収集・整理させ,多くの作品を出版させた。皇帝の精力的な文芸擁護の姿勢は多くの知識人に古典への関心を呼びおこし,多くの作品が生まれ,世にいうマケドニア=ルネサンスを生んだ。中世最大の法律全集,バシリカの再版が出版されたのも同帝の功績である。
繁栄したマケドニア朝にも11世紀半ばを過ぎると大きな翳りがみえてきた。国内では大土地所有者層が増大し,中小自由農民を併呑し,もって国内の封建化を助長した。これがさらに中央集権体制を揺るがせ,テマ制・ロゴテシア制を崩壊させることになる。対外的にはセルジューク=トルコの進出により小アジアを失い,バルカンでは第2ブルガリア王国やセルビア王国に苦しめられ,終わりには第4回十字軍により首都を占領されるにいたるのである。
農業立国であった帝国の収入源の最も大きなものは租税であった。したがって免税特権をはじめとする諸特権をもつ大土地所有者層(高級官吏・軍人・聖職者・修道士層)の増加をできるだけ抑制すること,すなわち中小自由農民層を保護・育成することが歴代の皇帝の最大の関心事であった。中小自由農民の農地の転売・寄進・遺贈は厳禁され,納税の連帯制の強化,大土地所有者層の土地の先売権の禁止等々,歴代の政府は中小自由農民層の保護策を講じた。が,それは国庫収入を確実なものにするための施策であり,彼らの真の社会的・経済的保護を目的としたものではなかったので実効を十分にあげえなかった。彼らの多くは国の厳しい監視の目よりも大土地所有者の寛容な庇護を望んだのである。11世紀前半のロマノス3世は自らが大土地所有者の出身であることも手伝って従来の中小自由農民保護策を転換,逆に政・官・軍の実力者たちでもある大土地所有者たちの支持を得るため彼らの優遇策を取るようになった。以後中小自由農民層の没落は進行し,国内に大土地所有者の封建的支配が広まった。同時に11世紀後半は対外危機が帝国に甚大な被害を与えた時代でもあった。1071年中央アジアから西進してきたセルジューク=トルコ軍は小アジアに侵入,ロマノス4世軍を大破。1080年には小アジアの中央部,イコニオンに首都を置くルーム王国を樹立した。他方,同年には南イタリア支配の最後の拠点パリをノルマン軍に奪われて撤退した。首都を狙うノルマン軍に対して海軍力の不足した帝国はヴェニスの艦隊の援助を受け,代わりにヴェニス商人の帝国内における関税免除とその他の貿易特権を認めた(1082)。この軍事援助と引きかえの貿易特権はのちにはジェノヴァ・ピサにも認められたため彼らの商業活動は活発となった。が,帝国のそれは著しく後退した。国内の封建化は11世紀半ばのコンスタンティヌス9世によるプロノイア制度の成立により明確となる。それは皇帝が臣下に一定の奉仕や任務に対し給料の代わりに国有地の管理権とそこからの収入を与える,という西欧の封建制度にも似ている土地を媒体とした主従関係をさす。当初は管理権が1代限りであり,売却も遺産相続も認められていなかったが,12世紀に入ると変貌した。アレクシオス1世は軍事力増強のためプロノイア制を拡大した。すなわち軍務につくことを条件に大量の国有地を下賜した。マヌエル1世は受給した土地を元老院議員やほかのプロノイア受給者になら売却を許可すると決定。さらに13世紀後半のミカエル8世はプロノイア受給地の世襲を認めるに及んで,帝国の中央集権体制は大きく崩れた。11世紀後半の帝国領の縮小化と混乱によりテマ制も崩れ,中央政府も皇帝とその一族を中心としたグループが政権を担当,臣下とはきわめて封建的な主従関係をもち,これを支配機構の基盤とした。これより先1054年には東西両教会はローマ教皇の首位権をめぐり,さらに両教会の典礼・慣習などの違いを理由に大分裂をおこした。セルジューク=トルコに脅かされ,分裂した東方の兄弟たちを救うという大義名分のもとに教皇ウルバヌス2世は第1回十字軍をおこした(1096)。が,異教徒であるイスラーム教徒に対する反感を敵意に充ちた西欧の騎士たちと違って彼らに対しては寛容でさえあったビザンツの人々はこの招かれざる客の来訪に戸惑った。逆にビザンツの人々の援助と歓迎を当然のこととした十字軍の騎士たちは首都に集結したときには期待が裏切られたと感じ始めた。双方の誤解は十字軍が回を重ねるごとに激しくなった。第3回のおりにはすでにフリードリヒ1世はバルカン南下の際セルビア王国と第2ブルガリア王国と協力して首都占領を計画したほどであった。首都の富への羨望,教会分裂の元凶としての帝国への反感と敵意,これにヴェニス総督エンリコ=ダンドロの東地中海・黒海貿易路の確保の野望が重なり,第4回十字軍はついに首都を攻略し,1204年4月にこれを占領。その地にラテン王国(1204〜61)を樹立した。
【後期】首都を逃れた旧ビザンツ勢力はトラペツント・エピロス・ニケーアに亡命政権を樹立するが,なかでもニケーアの政権が最も強固なものであった。わずか半世紀のあいだに周辺の外敵を破り,ミカエル8世によるペラゴニアの戦い(1259)の勝利により政権の地位を不動のものとした。同帝はその勢いに乗じて旧首都をラテン王国から奪回。帝国最後のパレオロゴス朝(1261〜1453)を樹立した。が,その領土は帝国と呼ぶには余りに狭く,首都とアドリアノープル・デュラキオンを結ぶ線より南部の海岸地帯,アカイアのミストラ地方それに小アジアの西部沿岸地帯しか残っていなかった。それもときとともに,バルカンではセルビア,小アジアではオスマン=トルコに浸食されてしまうのである。内政・外政ともに難問が山積していた。国内の封建化による悪弊は大きく,行政の乱れ,内乱と暴動の頻発に加え外国人傭兵の増加が,市民および農民層を重税をもって圧迫した。が,復興した帝国を最も苦しめたのは終わりには国そのものを滅ぼすにいたるオスマン帝国であった。小アジアのブルザに首都を置き(1326),1365年にはバルカン半島のアドリアノープルに首都を置くに及んで帝国の命運は定まったといえる。海上ではイタリア商業都市の艦隊に制海権を奪われて久しく,陸では帝国の周囲をトルコ軍に包囲されたのである。チェルモナの戦い(1370)でセルビア軍が大敗した後ビザンツ皇帝も以後オスマン帝国に対して進貢義務を負わされるにいたり,ここに帝国の政治的独立は失われた。こうした窮状にあってヨハネス5世(マヌエル2世・ヨハネス8世)らはローマ教皇を通じて西欧側からの軍事援助を教会再統一を条件に,すなわちローマ教皇の首位権を認めることを条件に引き出そうと務めた。が,国内における保守派の反対と教皇をはじめとする西欧世界の関心の薄さに阻げられなんらの実効もあげえなかった。かくするうちにコソボの戦い(1389)・ニコポリスの戦い(1396)でセルビア・ハンガリーが大敗。モンゴルのティムール=ハンの小アジア侵入,つづくアンゴラの戦い(1402)でスルタン=バヤジットが破れ,帝国は一時小康を得た。が,1453年春スルタン=メフメト2世が籠城軍の10倍の兵力をもって総攻撃を仕掛けるに及んで帝国の命運は尽きた。1453年5月29日の総攻撃の日,皇帝コンスタンティヌス11世は市内の白兵戦で倒れ,1,000有余年の命脈を保った帝国はここに終息したのである。
政治的には緩慢な下降線を辿った11世紀後半からの帝国ではあったが文化的活動は反比例的に上昇線を辿った。マケドニア朝につづくコムネノス朝(1081〜1185)・アンゲロス朝(1185〜1204)においても首都の大学を中心に文芸は大いに栄えた。それは誰よりもまず皇帝・皇族・高級官僚たち自身が学問や文芸・詩歌をこよなく愛し,自らも詩作・著作に耽り,また芸術家・文人・学者・知識人たちを身辺に集め,彼らを保護・育成したからであった。首都の宮廷はいわば一大文芸サロンと化した趣があった。歴史・神学はもとより本格的な口語文学が登場,恋愛小説・風刺詩などに傑作を残した。そしてパレオロゴス朝ではビザンツ文化の最後の花を咲かせるマケドニア=ルネサンスがおきた。人々は政治的無力さを古典ギリシアへの回帰と伝統あるビザンツ文化への自覚を呼び覚ますことによって乗り越えようとした。多くの百科全書派の知識人が輩出し,イスラーム教徒やラテン教会に属するキリスト教徒達と論陣を張ったり,人文主義者としてイタリアに渡り,ギリシア・ビザンツ文化をラテン世界にもたらし,イタリア人文主義に刺激を与え,来るべきルネサンスの準備を整えた者たちも多かった。
首都はオスマン=トルコに滅ぼされたが,ギリシア正教はトルコ支配下にも生きつづけ,1933年ギリシアに王政が施かれるやただちに国教となった。ビザンツ美術とともに現代に残されたビザンツ帝国の貴重な遺産となっている。