●被差別部落 ひさべつぶらく
アジア 日本 AD
未解放部落ともいう。1965年(昭和40)8月の「同和対策審議会答申」にいう同和地区。1869年(明治2)2月の調べと思われる,国民を〈華族,士・卒族,神職・僧尼,平民,穢多,非人〉と分けた「府藩県人員表」(全人口でなく,わずかな欠落あり)では,総人口3,008万9,401人(100%)のうち穢多44万3,093人(1.473%)とある。その後の部落(地区)数と人口数は,1921年(大正10)4,853と82万9,773人,1935年(昭和10)5,365と99万9,687人,1962年(昭和37)4,160と111万3,043人,1982年(昭和57)4,563と115万7,590人となっている(答申総理府発表)。ただしこの調査は政府のつかんだもので,必ずしも実数とはいえず,運動団体からは水平社時代から6,000部落300万人という。部落の成立については,太閤検地帳に登録された農民の肩書「かわた」「さいく」などに注目し,16世紀末から17世紀のあいだの成立説,寛永期(1624〜43)に「かわた」から「穢多」に変称され,斬罪役を命じられる17世紀中葉説,在地定着に注目して部落が劣悪な土地に移動させられ定着する17世紀後半の寛文・延宝期(1661〜80)の成立説,非人身分の賎民としての設定と関連して,「かわた」身分も同時期に固定化されたと推論する17世紀末〜18世紀初頭の成立説などがある。国の答申では部落の人々は紛れもなく日本民族・日本国民であるとし,その成立を戦国末から近世初期にかけて,封建社会の政治的・経済的・社会的諸条件に規制せられ,一定地域に定着して居住することによって形成されたという。国の答申(1962調査)によると,都道府県別で部落数の上では広島・兵庫・岡山・愛媛・福岡の順,世帯数の上では大阪・兵庫,人口の上では兵庫・福岡・岡山・奈良・三重・和歌山・愛媛・高知・埼玉の順,少ないのは富山・石川・長崎となっている。混住率は全国平均60%で府県によりかなりの差がある。地区別の分布では,全国4,160地区のなか,4分の1をこえる1,059地区が中国地方,関東648,近畿975,四国553,九州521,中部363,北陸39,東北2とあり,西日本に密である。地区人口も近畿周辺に集中化している。就業の状態は,日雇労働者が多くて常用労働者が少なく,地区が伝統的な部落産業や零細農業に依存している。生活保護法による被保護世帯は一般よりかなり多い。部落は伝統的にきわめて劣悪な地勢の地に位し,災害を受けることが多い。人口増と部落差別を避けるため,離村向都の現象が目立ち,また都市的地区では一般人口の混住がみられる。居住密度は一般地区と比してとくに過密とはいえないにしても,都市的地区では住宅が密集し,長屋・間貸家・間借がみられ,スラム化しているところが多い。婚姻関係は部落内婚が多く,一般住民との通婚はきわめて限られている。産業では雇用労働者や単純労働者が多く,近代産業への雇用労働者は少ない。生活環境は行政の不十分さから劣悪であり,生活水準も低く,社会福祉にあずかる者は,きわめて部分的・一時的であり,なお「差別」に関する人権意識に十分に対応する域に達していない者があるという。政府は「解放令」を出したが,明治末まで,その解放を保障する実質施策をせず,ようやく明治末年になって対策に乗り出した。1907年(明治40)初めて全国の部落調査を行い,地方改善事業として取り上げた。このとき政府は,部落を「特殊部落」「細民部落」「後進部落」と命名した。このなかの「特殊部落」が差別用語として後に残った。しかし政府の対策は改良主義的で部落側の自粛を求め,慈善的・恩恵的なもので,部落問題が日本の社会構造の病理に由来することを理解しなかった。大正期(1912〜25)に入って全国的に部落に自主的改善運動が勃興してきたが,政府は改善策を積極的に行うことをしなかった。1918年夏の米騒動と1922年の全国水平社の勃興に初めてこの問題の重要性をさとり,昭和期(1926〜)に入って融和事業を積極的に取り組むにいたった。しかし太平洋戦争の勃発によってそれも中絶し,戦後に持ちこされた。昭和30年代にようやく国策として,この問題の解決を大規模にはかることになり,成果をあげてきているが,なお不十分な面が少なくない。
〔参考文献〕『同和対策審議会答申』1965
小林茂編『人権の歴史』1981,山川出版社