●肥後 ひご
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もと火の国に属す。天武・持統朝ごろに肥前・肥後二国となる。現在のほぼ熊本県にあたる。『延喜式』には,玉名・山鹿・菊池・阿蘇・合志・山本・飽田(あきた)・託麻(たくま)・益城(ましき)・宇土(うと)・八代・天草・葦北・球磨(くま)の14郡をあげている。肥後の平野を中心として農業生産力は高く,古代において九州で唯一の“大国”にランクされていた。『続日本紀』によれば,713年(和銅6)肥後国司,道君首名(みちのきみのおぶとな)は民政殖産に尽くし,名国司とうたわれたという。平安時代末期には大宰権帥藤原隆家の曽孫則隆は1070年(延久2)菊池に下向し,菊池氏を称したと伝える。中世,菊池氏は阿蘇氏とともに勢力を振ったが,南北朝時代から戦国期にかけるにしたがい,しだいに衰え,代わって各地の豪族が台頭し,いわゆる52大衆時代を迎える。豊臣秀吉は九州征伐の後,球磨・天草を除く全土を佐々成政にあたえたが,国人一揆がおこり切腹を命ぜられた。のち,小西行長に宇土・八代,残りの9郡を加藤清正に与えた。ただ球磨は中世以来,相良氏が支配していた。1632年(寛永9)加藤氏改易後,細川氏が54万石の領主として入国し,明治にいたった。