●比丘尼 びくに
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[1]女性の僧侶,[2]鎌倉・室町時代,尼の姿をして諸国を遊行した半僧半俗の女性(しだいに芸人化した),[3]江戸時代に尼の姿で売色した下級の私娼,などを意味する。【女性の僧侶としての比丘尼】国語では尼ともいうが,これはサンスクリット語で母を意味する阿摩からきたものといわれる。インドでは仏教信者の集団を比丘・比丘尼・優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)の四衆にわけたが,優婆塞・優婆夷が在家の信者であるのに対し,比丘および比丘尼は出家して仏道を行ずるものをいった。比丘は250戒,比丘尼は500戒ともいわれる戒律をまもり,解脱のため修行しなければならない。そのかわり乞食(こつじき)して布施をうけ,労働せずして生活を維持することができた。わが国では渡来人で,鞍作氏の祖と伝えられる司馬達などの娘が583年出家して,善信尼と称したのが最初とされ,624年には569人の比丘尼がいたと伝えられる。令制においては僧尼令に基づき,厳しく統制されたが,管理はしだいに緩やかなものになるとともに,皇族・貴族の子女で僧籍に入るものも多くなった。それらが住む寺を比丘尼御所とか尼御所と称した。さらに室町時代には禅宗の五山制にならい,尼寺五山も定められたが,京都の景愛寺・護念寺・檀林寺・恵林寺・通玄寺,鎌倉の太平寺(高松寺)・東慶寺・国恩寺・護法寺・禅明寺がそれである。また比丘尼御所は江戸時代に入り,寺格が整備された。皇族出身者が住持する寺を御宮室と称し,大聖寺・宝鏡寺・曇華院・光照院・霊鑑寺・円照寺・林丘寺・中宮寺などがあった。また摂関家など公卿出身の子女が住持のものを御禅室と称し,慈受院・三時知恩院・法華寺・端竜寺・総持院・宝慈院・本光院などをさす。明治維新により皇女が尼寺に入ることは止み,華族の子女がこれに代り,比丘御所の寺格も廃された。
【民間遊行者としての比丘尼】奈良時代末以降,国家による僧尼への統制が緩くなったことと平安時代初期以降,原始的山岳信仰と仏教の密教的信仰とが結びついて修験道が盛んになったことなどに影響され,比丘尼のなかにも諸国を遊行し,祈祷や託宣を行うものも現れた。いわゆる民間の聖(ひじり)に対応する比丘尼である。とくに熊野比丘尼は有名で,牛王(ごおう)宝印を売りながら,熊野の霊験を唱導したり,地獄・極楽の往生の諸相を文芸や絵解きによって説いて歩いた。そのため,熊野比丘尼は歌比丘尼とも呼ばれ,絵解きの内容もはじめは教義に限られていたものが,しだいに世俗的なものも加えられ,絵解きする人も芸能人化していった。なお全国各地を遊行する比丘尼のなかには「八百(やを)比丘尼」の由来を語るものもあり,この伝説が各地にひろまった。大筋は,ある長者の娘が人魚の肉など珍しいものを食べたため,何年たっても老いることなく,つねに16〜17歳の若さを保っていることを恥じて,尼となり,諸国行脚に出,最後,800歳で往生したというもの。その来遊の証拠として,手植えの松が老木として残っているとか足跡石や腰かけ塚があると指摘する。
【遊女としての比丘尼】芸能人化した歌比丘尼にはしだいに遊女化していくものもあった。時代が下るにつれ,定住する傾向がふえ,江戸時代には宴席で,仏画の絵解きをし,頌歌を唱和する一方で,売色もするという形に専業化していった。平素小脇に地獄図を入れた文匣をたずさえ,これを行人に示しては牛王札を与え,伴奏に編木(びんささら)を用いた。熊野比丘尼・勧進比丘尼とも呼ばれた。万治年間(1658〜61)歯を磨き,薄化粧し,黒い帽子を冠った風体でひそかに売淫を行い,浅草田原町大川端に家ごとに2〜3人ずつ群住したと記録されている。その後,類似の尼形の売色の女性も現れ,比丘尼・仕懸比丘尼・船比丘尼・丸女などと呼ばれた。比丘尼の用いた特殊なはき物を比丘尼足駄(あしだ)・比丘尼雪駄(せった)などと呼ぶ。