●被官 ひかん
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令制では上級官庁に直属する下級官庁をいったが鎌倉期以降,より有力な武士に対して契約によって家来となり公家寺社の支配から離脱し,守護地頭の領主化に伴い,各地の地侍,有力名主などは被官として武士団に組みこまれた。武田の領国時代に,寄親―寄子(同心)の下に又被官として多くの軍役層があった。1536年(天文5)の伊達家「塵芥集」に,地頭の隷属百姓を被官,地主の隷属百姓の名子と区別したのは知られているが,地方によっては混在している。被官は武士の主従関係より生じたものとされる。兵農分離の戦乱と,太閤検地による小農民自立政策により被官の農民化が進められたが,郷代官・地侍が御館豪農として残った地帯の被官百姓は近世初期は,身分が上位であった者が多かった。近世期より農地改革前まで被官の残された地帯として,信州伊那郡が知られているが,この学術紹介は,小林平左衛門により『信州伊那の被官百姓』(歴史地理1922年)に南向村(現中川村)大草の事例が発表された。その後の小林の研究は,個別研究を加え『日本農業史の研究』に収められてあるがいずれも上伊那の同じ地域である。信州下伊那地方の御館被官の研究は,関島久雄・古島敏雄の共著として『徭役労働制の崩壊過程』の出版をみたが,同書に盛られた史料と考察は,被官制について不朽の名著となっているとされよう。本書の古島の著作分は同著作集の第1巻に収められているが原著の章節の古島分を抜きとった感が残る。古島の著作集1巻(東大出版,1974)に著者による解題と原著の関島分担分を併せた目次が載せられているが,それによると古島により被官地帯として研究の対象となった下伊那郡大河原(現大鹿村)の前島家の「農業制度としての御館・被官制度その分解」(「農業経済研究」12巻1・24後,『近世日本農業の構造』著作集3巻所収)の発表は,1936年のことであり,本論文が有賀喜左衛門を啓発し,氏による下伊那地域の史料採訪となった。『農村社会の研究』(1938,農山漁村文化協会,1980年復刊)が「名子の賦役」(「社会経済史学」3の7・10,同氏著作集8,未来社)1933年論文に石神調査(岩手県二戸郡石神村)などを加えて刊行されたのが,関島・古島の前著の刊行と同じ年であり,名子・被官についての二つの研究書の刊行をみることになる。このように,小林・関島・古島・有賀などにより信州伊那を中心とした被官についてほぼ実態の歴史的考察がすすめられたが,いずれも農地改革前まで残存した実態調査より,古文書研究が進み,江戸時代の被官についての史料の紹介が被官の生なましい性格を浮き彫りにしているといえよう。これらの研究から被官についてみれば,[1]財物的な土地付属物として御館により売買の対象となること。[2]身代金・地代金を支払い独立すること。以上2点が前記4人の研究者の争点となっているものとみなされよう。これについての史料は,小林平左衛門の上伊那郡中川村大草地区と,古島敏雄の下伊那郡大鹿村大河原地区の史料が主要なものであるが有賀は両氏の史料によりながら[1]の財物売買としての被官は,中世的職の売買としてみる基本的な理解を提示し[2]の被官の御館〜の身代金・地代金の支払いのない解放の多い例を指摘している。いずれにせよ被官の残存地帯は14世紀の南北朝期,南朝宗良親王の拠点として知られる隔絶山村であるが,太閤検地では「上」の村として生産力の高い地域であり,貢租をめぐる収奪体系に特異な構造をもつ地域のために再版被官地帯として残されたが,近世初中期,幕領に一般的にみられた被官や,中世の武士団についての実態をあますとこなく示す史実としてその史的究明は進められねばならない。〔参考文献〕本文引用文献の他
平沢清人『近世南信濃農村の研究』1950,お茶の水書房
竹内利美・長田尚夫『南信濃農村誌』1975,慶友社