50音順    検 索

●東山文化 ひがしやまぶんか

アジア 日本 AD 

 室町時代中期の文化に対する通称。室町時代中期は応仁の乱をなかにはさんだ不安と混乱の時期であった。しかし将軍足利義政がこの世相をよそに,風流閑雅の生活に逃避して趣味と芸術とを愛好し文化を保護し,かつ公家社会が伝統的な古典文化の保持につとめ,禅僧社会が新しい大陸文化の摂取と普及に力を注ぎ,さらに富強な守護大名や裕福な町衆および連歌師なども,文化の享受と形成の一翼を担うようになったので,不安と混乱の時期にもかかわらず,この時期には特色ある文化,わけても芸術や趣味が発達した。そこで文化史上,この文化を義政の営んだ東山山荘にちなんで東山文化と呼称し,この時代を東山時代と呼んでいる。

【東山文化の概観】南北朝時代から公家社会におこりつつあった和学,伊勢物語・源氏物語・古今集などの古典や有職故実などを註釈的に研究する和学には,一条兼良三条西実隆らが出て活躍し,これを一段と推進した。他方,禅宗に付随して伝えられた新傾向の儒学・宋学(朱子学)は,この時期になり禅僧らに担われていよいよ興隆した。なかでも注目すべきは,桂庵玄樹が薩摩の島津氏に迎えられて宋学を講じ,薩南儒学をおこし,近世朱子学興隆に先駆したことである。文学の面で顕著なことは,室町前期いわゆる北山時代から流行しつつあった連歌が,心敬・宗祇・肖柏宗長らの出現でその全盛期を現出し,身分的にも地域的にもすこぶる普及したことである。なお連歌の形式化に対して,連歌本来の魅力であった自由さと庶民的な滑稽さとを取り戻そうとする運動がおこり,俳諧連歌の成立したのも,また『文正草子』『福富草子』などの御伽草子が出現し,庶民文学の源流となったのも,この時期のことである。世阿弥元清が足利義満の保護のもとに洗練し大成した猿楽の能いわゆる能楽は,武家の式楽として,この時期になってさらに興隆し,音阿弥元重・金春禅竹らの名手が現れ,他方,手猿楽と呼ばれる町衆猿楽も栄えた。東山文化のなかでとくに重要なのは,生活と結びついた芸術および趣味の分野である。室町初期に如拙が出て土台を確立した水墨画は,この時期に入って大いに栄えた。まず,周文が出てこれを洗練し,次にこれを受けて小栗宗丹・狩野正信が現れ,さらに雪舟が出るに及んで,宋元風の日本水墨画はその黄金時代を現出した。ついで正信の子の元信は,宋元風の水墨画に大和絵の技法を加味して,日本的な水墨画の一派をおこし,狩野派と呼ばれ,武家社会の支持を受けて画壇の主流となった。この時期の建築の遺構として現存するものは,義政の東山山荘の一部であった銀閣(観音堂)と東求堂などにすぎないが,建築の分野で何よりも注目すべきことは,現代の和様住宅様式の源流である書院造が成立し,しだいに普及したことである。また夢窓疎石を先達として南北朝時代から流行し始めた禅宗様庭園の構営は,足利義政の庭園愛好熱にも支えられて,この時代に入ってすこぶる流行し,将軍家や守護大名の邸館また寺院に多くの名園が営まれた。龍安寺方丈の前の枯山水様式の庭や,慈照寺の庭園などは,その面影をとどめるものである。なお東山文化の一分野として特筆されるべきは,茶の湯と生け花とである。鎌倉時代から再びおこり,南北朝時代から一種の社交的な遊びとして広まりつつあった喫茶の趣味は,この時期に入り,生活芸術としてその方式を整えるようになった。すなわち風流将軍義政は同朋衆の能阿弥らと相談して,従来の茶会のもっていた遊戯性を芸術性に置きかえ,格式法儀がやかましく唐物趣味で装われた貴族的な茶儀,世にいう書院台子の茶を創始した。ついで村田珠光が出て四畳半の茶室を創案し,書院の茶の芸術性と庶民の茶の簡素性とを禅の精神で統合し,新しい喫茶の方式を工夫した。これがいわゆる茶の湯で,やがて京都・奈良・堺の富裕な町衆らのあいだに流行し,堺の富商茶人武野紹鴎によって一段と洗練され,わびを理念とする趣味芸術として大いに流行するようになった。花を瓶などに挿して仏前に供え,またそれを鑑賞することは早くから行われていたが,室町時代初期のころから花を立てる技法や様式が工夫されるようになり,東山時代にはそれの専門家も現れるようになった。義政に同朋衆として仕えた立阿弥・台阿弥,京都六角堂の池坊家の専慶,また文阿弥などは立花の名手といわれた人々で,生け花はこの期において大いに発達した。なお,この時代は戦乱の時代で,刀剣や甲冑製造の技術が進歩し優秀なものもつくられたが,とくに進んだのは彫金で後藤祐乗が名声を博した。漆工芸もまたおこり,蒔絵の技法が進歩した。

【東山文化の特色】[1]公家・武家・禅宗文化の融合。足利義政を中心とする上層武家社会が,この時代の文化の最も有力な荷担者であり,将軍の邸館や東山山荘は公家・武家・禅僧らの会同するサロンの役割を果たした。そのため,将軍や公卿が和歌の句をよみ,禅僧が漢詩の句をよむ和漢聨句の流行したことが示すように,武家社会を仲介にして,伝統的な公家文化と舶載の禅宗文化との融合が,北山文化に比べてさらに一段と進展した。義政の営んだ東山山荘が,その中心に公家的な浄土信仰の本尊阿弥陀像を祭る東求堂を置き,それをめぐらすのに禅寺西芳寺のそれを模した庭園をもってしていること,また幕府の御用絵師狩野元信の画風が禅宗的な宋元風水墨画に大和絵の技法を加味したものであることは,この第1の特色のよい事例である。[2]禅宗文化−象徴的文化。京都の五山・十刹に拠った禅僧らが,禅僧の本分である参禅弁道よりも学問・文学・芸術に打ち込み,自ら儒僧・詩僧・画僧として活躍し,将軍や守護大名らが彼らを外交・文化の顧問として重用したので,この時期には禅宗文化が大いに栄えた。宋学がおこり五山文学が栄え,宋元風水墨画が興隆し,禅宗様庭園が普及し,能楽や茶の湯にも禅の精神が浸透するようになったのは,そのよい事例である。しかも,鎌倉時代の文化が写実的・説明的な表現に傾いているのに比べて,総じて象徴的・暗示的な表現を愛していること,次にくる桃山文化が豪壮華麗な美をねらっているのに対し,幽玄閑寂・簡素枯淡な美を理念としていること,これが東山文化の顕著な特色であり,それは禅の影響によること大なるものであった。[3]文化の還俗の傾向。およそ鎌倉時代の文化は宗教への隷属性の強い文化であり,やがて登場する桃山文化は宗教への隷属を脱却し,その意味で還俗した世俗性の濃厚な文化である。東山文化はその中間の段階であり,鎌倉時代に栄えた仏像彫刻や仏画が衰えたのに反し,武将の肖像彫刻や肖像画がつくられ,花鳥山水画が多く描かれるようになったこと,また宋学が禅宗への隷属から脱して,学問としての独立へ一歩を進めたことなどが示すように,文化の還俗への傾向がしだいに強くなりつつあった。[4]文化の身分的・地域的普及。この時期には守護大名,ついで戦国大名がそれぞれの領国に拠って富強となり,それだけに彼らの文化への関心が高まり,たとえば大内氏の城下町山口のように文化の栄えた都市も出現した。また都市の商工業がおこり,町衆の勢力が増大し,とりわけ問屋や金融業者が富を集積し,彼らもまた文化荷担者の一翼をかたちづくるようになった。しかも応仁の乱後,公卿・僧侶・連歌師らが京都を離れて地方へ流寓することが多くなり,彼らとともに文化が地方へ伝播するようになった。このような諸事情に促されて,文化が身分的にも地域的にも,少なくとも前代に比べて格段に普及したこと,これが第4の特色である。鹿児島における宋学の興隆すなわち薩南儒学の成立,山口における京都文化の移植と定着,能登の畠山・越前の朝倉・駿河の今川などの諸氏の和学への関心,下野の足利学校の隆盛,宗祇の諸国回遊と連歌の全国的流行などで,文化の地域的な普及がよく察せられよう。また庶民の生活に題材をとり庶民文学の一源流となった御伽草子の出現,京都・奈良・堺の富裕な町衆らのあいだにおける茶の湯の流行,民間芸能の京都進出などは,文化の身分的普及の動向をよく示すものである。なお特色というにはあたらないが,この東山文化のなかには,書院造・庭園・茶の湯・生け花・俳諧・能楽など,最も日本的な文化として,現代に生きて伝わっているものの多いことを指摘しておきたい。

01