●東インド会社 ひがしインドがいしゃ
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17〜19世紀のヨーロッパにおいて,それぞれの国内での独占的特許状を与えられて,「東インド」とのあいだの貿易およびその地域における植民地経営を行ったところの諸会社の通称。イギリス・オランダ・スウェーデンその他の諸国において設立されたが,とくに重要な歴史的意義をもつのはイギリスとオランダのそれである。また「東インド」とはヨーロッパ人が「地理上の発見」後,「西インド」に対して従来の「インド」を呼んだ名称であって,それは当時「東方の物産」(香料とくにコショウ,綿織物・絹・蔗糖など)を産出する地域をさした。1.イギリス東インド会社
【会社の経営形態】イギリス東インド会社は1600年12月エリザベス1世の東インド貿易独占の特許状賦与によって設立された。このときの会社の正式の名称はロンドン東インド会社。設立推進の中心はレヴァント会社のスミスほかロンドン商人たちであった。はじめは1航海ごとの個別企業制であったが,東インド貿易が永続性を帯びてきたことと優勢な敵手たるオランダ東インド会社に対抗する必要とから,1613年以降,より永続的な形態である合本企業制へ移行しはじめた。そしてクロムウェルの時代には当座制をまったく廃止し,チャールズ2世の時代には社員の有限責任制を確立して近代的株式会社としての形態を形成した。ところで名誉革命前夜に高まった政争のなかで会社の役割も議論の対象となり,革命後の1698年には競争会社イギリス東インド会社が設立された。しかしまもなくこれら新旧両東インド会社のあいだに和解と抱合がすすめられ,1709年には完全に合併,合同東インド会社と称した。それは1858年の解散時までつづいた。
【会社の活動】会社の活動は当初はおもに香料貿易であり,商船隊はモルッカ諸島をはじめインドネシア方面にむけられた(商館の設置年はジャワ島西部のバンテンが1612年,モルッカ諸島のアンボイナが1619年。バンダ諸島のルン島の占領は1616年)。しかしそこにおけるオランダとの激しい対立抗争の結果敗れ,17世紀末までにインド亜大陸に活動の中心を移し,それとともに主要貿易商品も綿織物となっていった。インド亜大陸に関しては,すでに1608年会社の商船隊は西北部の要港スラトに寄港し,1612年にはインド亜大陸におけるはじめての商館が設けられ,グジャラート地方に産する綿織物を取引している。さらに1615年ジェームズ1世はローをムガール帝国へ大使として派遣し,スラトだけでなく帝国領内各地でのイギリス人の貿易特権の取得に成功している。1670年代から1680年代前半にかけて,カルナティク地方を後背地とするマドラスの商館がイギリスむけ綿織物供給の基地として重要性を増し,1700年前後になるとベンゴール地方がようやく枢要な地域となっていく。綿織物の調達にあたっては,会社が現地人の代理人(グマーシター)を使って直接織布工に手付金を支払い,会社関係以外の商人のために働かせず,期限までに契約量を納入しないときには科料を課すなど厳しい規制を伴っていた。これはインヴェストメント制度といわれるが,これによってほかの商人(ヨーロッパのみでなくアルメニア商人やインド仲介商人など)との競争を排除し,直接生産者の掌握と流通面の独占がはかられた。1701年のアウラングゼーブ帝の死後ムガール帝国は分裂と衰退がすすむが,会社はこれに乗じて,1717年皇帝から輸出入商品の無関税内陸輸送の特権を得たほか,1765年にはベンゴール・ビハール・オリッサなどの地方の地税徴収権を得るなどして,単なる貿易商社にとどまらず政治的支配者の性格をもちはじめていった。なおこの過程は他方で,17世紀末からインド亜大陸への進出をすすめていたフランスとの激しい抗争を伴いながら遂行された。18世紀半ば,3回にわたるカルナティク戦争を通じてはカルナティク地方の,またプラッシーの戦い(1757)によってはベンゴール地方の支配権を,イギリスは,いずれもクライヴの指揮する会社軍の力によって手中に収め,インド亜大陸の支配をめぐるイギリスの優越を確立した。
【政治的支配と会社解散】このような政治的支配権の獲得は会社の軍事的行政的支出を急増させ,本国政府の金融上の救済を仰がねばならなくさせた。その上会社役員や現地職員が私腹を肥やしているとの非難と経済的自由主義の立場からの批判も相まって,政府の会社に対する管理監督が強く要請された。こうしてノースの規制法ともいわれるレギュレーティング=アクト(1773)およびインド法(1784)が制定され,インド統治に政府が介入することになった。これらの法によってインドの統治は,[1]本国議会の任命する総督と評議員によって行い,[2]民政・軍事・財政に関する事項を担当大臣に報告することなどが定められた。また独占権については,1813年インド貿易の独占権が剥奪され,ついで1833年には貿易活動そのものが停止され,会社は純然たる統治機関となった。会社の直接支配する領域はとくに初代総督ヘースティングズ(在職1774〜84)およびウエルズリー(在職1798〜1805)・ダルフージー(在職1848〜56)の両総督のもとで増大した。それはマイノール戦争・マラータ戦争およびシーク戦争をはじめとする強引な併合政策の結果によっている。しかし1857年に始まったセポイの反乱は1会社によるインド亜大陸支配の不可能なることを示した。そこで本国議会は1858年インド統治法を定めて会社の行使してきた統治権をインド大臣の手に移した。会社は解散となった。
2.オランダ東インド会社
【会社の設立】オランダ東インド会社は,1602年3月ネーデルランド連邦議会から東インド貿易独占の特許状を得て設立された。これより先1594年はじめての東インド貿易会社としてアムステルダムに遠国会社が設立され,商船隊がバンテンに赴いている。これを契機として東インド貿易熱が急騰し貿易会社が乱立したが,連邦議会およびホラント州の政治指導者であったオルデンバルネフェルトの努力により,それらが統合されてこの会社の設立となった。正式の名を合同東インド会社という。なお会社は当座制を脱し社員の有限責任制をとっていたことなど最初の近代的株式会社といわれる経営形態をもっていた。
【会社の盛衰】会社のおもな活動は香料貿易であった。しかし会社には他国の貿易活動との対抗や現地の政治権力の征圧などに必要な諸権限も与えられていた。会社はこれらの権限を行使しながら活動を推進した。1603年ポルトガル人を追い払ってバンテンに商館を建て,1605年アンボイナをこれまたポルトガル人から奪って占領し,1619年ジャカルタの地を獲得してここに総督府を置いた。また1621年バンダ諸島を占領し,1623年にはアンボイナ事件をおこしてイギリス勢力をインドネシアから撒退させる契機をつくっている。こうして17世紀半ば会社はインドネシアのほぼ全域を支配下に収め,さらにマライ半島・セイロン・喜望峰・台湾などにも力を伸ばし隆盛を誇った。しかし18世紀に入ると香料の取引商品としての重要性の低下などによる国際商業戦での敗退,支配領域の拡大に伴う統治費の増大,現地人の専制支配に対する反抗,現地職員の私利追求などの要因が重なって会社は破産状態になり,1799年解散した。その財産は国家に収納され,一方その支配領域は本国政府の直接支配下に置かれた。
〔参考文献〕西村孝夫『イギリス東インド会社史論』1960,大阪府立大学経済学部
『大塚久雄著作集』第1・2巻,1960,岩波書店
永積昭『オランダ東インド会社』1971,近藤出版社