●比較文学 ひかくぶんがく
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言語を異にする国の文学の相互の影響関係を研究する学問。比較の方法が人文学に導入された最初は比較言語学の成立による。18世紀後半,イギリスのインド支配により,インドに11年間滞在したイギリスの学者,サー=ウィリアム=ジョーンズ(1746〜94)がサンスクリット語の研究の結果,ギリシア語・ラテン語との類縁関係を発見したことに始まる。やがてドイツの学者によって,音韻法則が明らかにされ,ここにインド=ヨーロッパ語族の系統が明らかにされた。言語の場合は基礎語の構造の比較や音韻関係の対応によって厳密な検証が可能であるが,文学の場合は個々の民族の歴史的・社会的・文化的背景が反映しているので,それらの要因も併せ考えなければならない。一国文学史の記述にも,比較文学の視点を欠くことのできない例としてロシアの近代文学の創始者といわれるプーシキン(1799〜1837)の例をあげよう。彼の詩作が,シェークスピアの劇やバイロンの詩への熱中から大いに鼓舞されたことを無視するわけにはいかない。プーシキンの文学はナポレオンのモスクワ侵攻を撃退したあとの,昂揚したロシアの民族意識を背景にしているとともに,ロシアにとって,先進国であったイギリス・フランス・ドイツなどの思想や文学の敏感な受容から成り立っている。ロシア語の独特の美しさの発見は,先進国の言語を学ぶことによって自覚された。この事情は社会的状況をまったく異にするわが国の近代においても同じである。日本の近代文学は二葉亭四迷がロシア語の文学と,森鴎外がドイツ語の文学と,坪内逍遥や夏目漱石が英語の文学とそれぞれ接触したことによって成立したといっても過言ではない。いかに明治の文学青年が新しい文学の創出をめざして,英語で熱心にいわゆる大陸文学(フランス文学・ロシア文学など)を読んだか,その辺の事情は田山花袋の回想「東京の三十年」(大正6)などに徴しても明らかである。アンドレ=ジイド(1869〜1951)は1900年3月29日,ブリュッセルのリィブル=エステライック協会で,「文学に於ける影響について」という講演を行い,若い文学者たちにむかって影響を恐れるなと説いている。芸術的創造の最も偉大な世紀,最も豊饒な時代は,また最も深刻に影響を受けた時代であるといい切り,その例として古代文化とルネサンスを例示し,近代の例としてはゲーテをあげている。ヨーロッパにおけるゲルマン的要素と,地中海的な古代文明およびその復活であるルネサンスとの交流の場としてのフランスに,19世紀後半に比較文学という学問が生じたことには歴史的必然性がある。フランスの大学で比較文学の講座がおかれたのは,1896年,リヨン大学でジョセフ=テクスト(1865〜1900)が担当したことに始まる。テクストは「ジャン=ジャック=ルソーと文学的世界主義の起源」(1895)という論文を世に問い,真に学問としての比較文学を樹立したが,惜しくも36歳で早逝した。テクストのあとを受けて,リヨン大学の講座を担当したバルダンスペルジュ(1871〜1958)は『フランスにおけるゲーテ』(1904)によって,ポール=アザール(1878〜1944)は『ヨーロッパ精神の危機』(1935)において,それぞれ近代の文学と思想の研究に比較文学の方法が最も有効であることを証明した。とくにアザールのヨーロッパ児童文学の研究書で,啓蒙的な『本・こども・おとな』(1932)は矢崎源九郎・横山正矢によって邦訳(紀伊国屋書店刊,1957)され,比較文学への好個の入門書となっている。同じくフランス比較文学の代表的な学者ポール=ヴァン=チーゲム(1871〜1948)の入門書『比較文学』(1931)が,日本では戦時中太田咲太郎によって翻訳された(1943)。日本ではフランス派比較文学の理論や実践が導入される以前から,日本近代文学の研究において,比較文学研究の実績をあげてきている。坪内逍遥門下の柳田泉(1894〜1969)・本間久雄(1886〜1981)・日夏耿之介(1890〜1971)の3人は,日本における比較文学研究の開拓者である。アイルランド人,ハチソン=マコーレー=ポズネットは1886年に,“Comparative Literature”と題する書物を刊行しているが,この本に前記したフランス派の比較文学者たちの,ヨーロッパ文学間の厳密な文献的実証による影響関係の研究とは違って,概観的な世界文学の解説であるが,この本をもとにして,坪内逍遥は明治22〜23年ごろ,東京専門学校で「比照文学」と題して講義をしている。上記3人が逍遥から英文学の講義を受けたのはこれより後になるが,この3人が日本の比較文学の基礎づくりをしたことは意義深い。すなわち柳田泉『政治小説研究』(1935〜39)・『明治初期翻訳文学研究』(1935),本間久雄『明治文学史』(1935〜58),日夏耿之介『明治大正詩史』(1929)はそれぞれ西欧文学の影響下に成り立った日本近代文学の実証的研究である。太平洋戦争後,文学の国際的研究の気運の高まりとともに,日本比較文学会は1948年5月,東京大学を会場として創立大会をもった。フランス文学者中島健蔵を中心に,島田謹二・吉田精一・太田三郎・佐藤文樹・松田穣の各氏が世話人であった。一方,大学の講座として比較文学がおかれたのは,1950年10月,駒場の東京大学教養学部内に後期課程の教養学科が設けられた際,島田謹二が担当し,さらに1953年4月,新制の大学院が発足の際,比較文学・比較文化課程の主任として島田謹二が就任した。これがいわゆる駒場学派の誕生である。日本比較文学会も発足以来,英文・仏文・露文・国文学のそれぞれの研究者のなかで比較文学に関心をもつ学者たちを集めて,現在では700名を超える盛況であるが,もともと各国語別の近代文学の研究者の集まりであるため,どうしても研究対象が近代に限られがちである。そこで主として日本文学の古典の研究者たちのなかから,日漢比較文学が提唱され,日漢比較文学会が1984年10月14日,中央大学を会場にして第1回設立総会を開いた。日本と中国との比較文学の研究は江戸時代以来の長い伝統をもち,日本漢文学はそれ自身で立派に文学史を形成するほどの豊富な内容をもっている。1900年にドイツに留学し,帰朝後,東京大学で近代的な文学研究法による国文学の基礎をつくった芳賀矢一は,日本漢文学史を重視し,1908年,1909年とにその講義を行っている。一方,「世界文学者年表」(1937)などもつくり,世界文学的な視野をもった国文学者であった。【比較文学と比較文化】比較文学は比較文化にまで範囲を拡大すべきか,あくまで文学に限定すべきか。論の分かれるところであるが,東大駒場学派はその発足の最初から,比較文化を包摂していたことが注目される。これは国際関係論や科学史といった学際的領域と並んで,教養学部の大学院が成立した事情にもよるが,文学の国際交流を研究する場合,ひろく他芸術との交渉も当然,視野に入れねばならず,比較文化の問題は,比較文学の立場からも包摂せざるをえないのではあるまいか。比較文化から比較文学へではなく,比較文学の研究が必然的に比較文化の問題に展開するのである。その意味でも日本比較文学の代表的な研究者島田謹二の研究の歩みは,今後の比較文学の展望にとって貴重な示唆となろう。氏は戦前,台北大学に在任中からフランスの学者の英文学研究に注目した。フランス象徴詩を日本に導入した上田敏『海潮音』(1905)の研究(1934)・『ポートボードレール』(1935)などの業績に示されるように,厳密に影響関係の測定のできる対象から本格的な比較文学研究を推進した。1958年以降,明治ナショナリズムの研究を対象とし,その成果が『ロシアにおける広瀬武夫』(1961)・『アメリカにおける秋山真之』(1969)に結実する。明治の海軍軍人の海外体験の意味を追究して,従来の歴史研究の盲点をも見事に解明している。
〔参考文献〕島田謹二『日本における外国文学』上・下,1975,76,朝日新聞社
剣持武彦編『比較文学』日本文学研究資料叢書,1982,有精堂
日本比較文学会「比較文学」1965創刊
東大比較文学会「比較文学研究」1951創刊