●藩閥政治 はんばつせいじ
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主として明治維新に中心的役割を果たした薩摩(鹿児島県)・長州(山口県)・土佐(高知県)・肥前(佐賀県)4藩の指導者層が維新後も出身藩に依拠して派閥をつくり,政治権力を独占した政治形態をいう。維新の当初に台閣に列したものは,公家9人,諸侯7人,藩士9人であったが,王政復古から版籍奉還をへて廃藩置県にいたるあいだに,三条実美・岩倉具視を除く公家・諸侯の勢力は失墜し,薩摩の西郷隆盛・大久保利通,長州の木戸孝允・広沢真臣,土佐の板垣退助・後藤象二郎,肥前の大隈重信・副島種臣らの藩士によって,明治政府の中核は固められていった。これら4藩の出身者は,先輩の庇護によって政府に入り,封建排他の余習と,強力な政府建設の必要から,同藩出身の者をもって結束を強めていったのである。しかしながら,この特定の藩の出身者による排他的・朋党的結合も,1873年(明治6)の征韓論による分裂,1877年(明治10)の西南戦争をへる過程において,様相を変えていき,上記の人々はしだいに政府から退き,また木戸孝允・大久保利通の死もあって,1878年(明治11)以降は,岩倉具視と結んだ伊藤博文・井上馨・山県有朋・西郷従道・黒田清隆・松方正義らを中心とした薩摩・長州両藩の出身者が中央政府の要職や地方官の地位を占め勢力を伸ばしていった。1885年(明治18)の初代内閣も薩長勢力の均衡の上に成立したものである。さて,彼らの結合であるが,必ずしも藩ごとにまとまっていたわけではなく,個々の連携・対立関係を錯雑させ,また時期によってそれが変わったが,官僚勢力を守ることでは一致していた。こうした,いわゆる「有司専制」に対する民間の攻撃は,自由民権論や議会論となり,大隈重信の改進党・板垣退助の自由党などは藩閥打破を唱え,1882〜83年(明治15〜16)ごろには最高潮に達し,国会開設以後もやまなかった。このような動きに対し,藩閥勢力の主力者も政党を無視できなくなり,両者の接近は日清戦争後顕著となった。政党勢力の伸展に伴い,彼らはまずこれと妥協し,次は自らが首領としてこれを組織することによって主導権を確保し,また文官任用令改正により政党員の政府部内進出を妨げるとともに,官僚中自らの後継者の養成確保につとめ,またいわゆる帰化閥人を加えて勢力の没落を防ごうとした。それは,伊藤博文と自由党,松方正義と大隈重信進歩党総理との連携,さらに1900年(明治33)の伊藤博文を総裁とする立憲政友会の成立となって現れたのである。こうして明治前半期の藩閥政治は展開されたが,明治後半期になると,黒田清隆・伊藤博文・山県有朋・松方正義・井上馨・西郷従道・大山巌ら薩長出身の藩閥官僚の巨頭は,“元老”と呼ばれ,閣外から枢機に参与する,つまり後継内閣首班についての主導権や重要政策の決定に関する大きな権限を握っていくのである。さらにまた,明治政府の支柱であった軍隊においても,官吏選抜の法が設けられ閥族が官学出身の官僚閥に転化してくると,今度は政党が不可侵の軍閥を形成,薩摩の海軍・長州の陸軍といわれたように,高級将校は薩長両藩の出身者に独占され,藩閥の残影は守りつづけられていくのである。こうした事態は明治30年代後半(1905年ごろ)までつづくが,大正期(1912〜26)になると,〈閥族打破〉のスローガンを掲げた,元老政治・官僚内閣排撃運動いわゆる“憲政擁護運動”がおこり,第2次西園寺公望内閣が軍閥の陰謀で倒れ,1912年(大正1)藩閥元老の支持のもとに桂太郎が内閣を組織したときに,政友会の尾崎行雄・国民党の犬養毅などが第1次護憲運動をおこし,桂内閣を倒した。そして,1918年(大正7)には原敬によって政党政治が達成され,藩閥勢力はしだいに衰えをみせてくる。さらにまた,1924年(大正13),清浦奎吾が貴族院を基礎にして内閣を成立させ,閣員銓衡に衆議院を無視したときにいたって,今度は,政友会・憲政会・革新倶楽部の3政党が共同してこれに対抗,第2次護憲運動を展開し,同年6月11日に加藤高明護憲3派内閣が成立し,ここに藩閥政治に終止符が打たれたのである。