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●班田収授法 はんでんしゅうじゅほう

アジア 日本 AD 

7世紀末から10世紀初めにかけて行われた水田の所有・用益に関する日本古代国家の規制。中国唐王朝の均田法をモデルとしながら、日本の実情に合わせてかなり大幅に改正している。

【制度の内容】『養老令(ようろうりょう)』によると、6歳以上の全国民を対象として、男に2段(当時の1段は約12アール)、女に1段120歩(1段は360歩)、賤民の男に240歩、同じく女に160歩の口分田(くぶんでん)を班給し、終身の用益を認めた。ただし田地の不足する国では、法定より少ない基準額で班給することも認められた。口分田の班給は戸を単位として戸主に対して行われたが、死亡・出生などによる戸の構成員の変動に対応する班給額の調整は6年ごとの班年に行われた。「養老令」の規定では戸籍の製作も6年ごとに全国一斉に行われることになっていたので、その最新の戸籍にもとづいて死者の分を収めとり、新たに6歳以上に達した者の分を授けた。口分田に対する課税は「租」と呼ばれる面積に比例する地税で、1段につき稲2束2把(米について現在の約3升)、当時の段当収量の3〜5%に相当する。口分田の売却・質入れなどは許されないが、小作に出すことは認められた(小作料は通例20%)。

【制度創設の意図】班田収授法がモデルとした唐の均田法と最も大きく異なる点は、唐では租・庸・調・雑徭などの人頭税を負担する成人男子に対して口分田を班給する原則であったのに対し、日本では、庸・調・雑徭などの成人男子の人頭税とはまったく無関係に、老若男女を問わず、また賤民をも含めて、すべての国民に口分田を班給したことである。この相違を生じた歴史的背景については、史料の不足もあって、必ずしも十分に解明されていない。しかし少なくとも、立法の根本的な意図は国民に直接課税するためにその基礎を提供することにあり、かつ制度の内容から判断して、村落内の階級分化の進行を阻止する効果をも期待したものとみてよいであろう。

【実施状況】『日本書紀』は646年(大化2)正月に発布された「改新詔」によってこの班田収授法が成立したと伝えているが、この「改新詔」の信憑性には多くの問題があり、仮にこのときなんらかの土地政策が打ち出されたとしても、それは全国的な水田の調査と、戸ごとに水田を配分する程度のことを行おうとしたものとみておくほかはない。現存の史料による眼り、班田法の規定がほぼ前述のような形をとって整えられたのは、690年(持統4)に施行された『浄御原令(きよみはらりょう)』のときからと思われる。ただし、このときには口分田を授けられる年齢にまったく制限がなく、その点がのちの『大宝令』や『養老令』の規定と大きく異なっているとみる学説が有力である。この『浄御原令』施行直後の692年(持統6)には班田が実施され、ひきつづき8世紀を通じて比較的順調に班田法が実施されたことには多くの証拠がある。しかし、それがまがりなりにも全国的規模で全国同時に行われたのは、800年(延暦19)の班年が最後であって、この後、9世紀に入ると、この制度は急速に崩壊していった。畿内(山城・大和・摂津・河内・和泉)では879年(元慶3)までのあいだにわずかに3回の実施。他の諸国でも、10世紀の初めまでの約1世紀間に5、6回の実施にとどまったらしい。902〜903年(延喜2〜3)に伊勢国で行われたものが、史料上最後の班田である。9世紀は一般に律令体制そのものが崩壊していった時代であるから、結局、班田法もこれと運命をともにしたというべきであるが、とくに班田法に関係の深い原因をあげれば、743年(天平15)に「墾田永年私財法」が発布されて、水田の永代私有が認められ、いわゆる初期荘園が成立し発展していったことである。つまり中央貴族や地方豪族の土地所有に対する強い要求に抗し切れなかったのである。

〔参考文献〕今宮新『班田収授制の研究』1944、龍吟社

虎尾俊哉『班田収授法の研究』1961、吉川弘文館

村山光一『研究史班田収授』1978、吉川弘文館


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