●半済法 はんぜいほう
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室町幕府が荘園年貢を二分し,その一つを幕府方の武士に給付することを定めた法。本来,半済とは,荘園制の時代につかわれたことばで,年貢の半分を納めることを意味した。半済実施にあたっては,実際の給与・割当をその国の守護に委任した。南北朝時代には各地において戦乱の絶え間がなく,しかも軍備兵糧は武士の自前であったため,武士の経済的負担が大きかった。そのうえ武士の所領は分散していたから,現在戦争している土地で戦費を調達することははなはだ困難であった。幕府は戦が行われている国の荘園本所領年貢の半分を兵糧料として当年1作に限り軍勢に預け置く政策を打ち出した。1352年(観応3・正平7)7月,幕府は半済施行の現存最初の法令を発布した。このときは近江(滋賀県)・美濃(岐阜県)・尾張(愛知県)3カ国の本所領を対象としていたが,翌8月にはさらに伊勢(三重県)・志摩(同)・伊賀(奈良県)・和泉(大阪府)・河内(同)を加えて8カ国に半済を拡大した。そのうえ,混乱のおきた場合は,本所の希望によっては下地を中分することをも認めた。観応令の3年後1355年(文和4・正平10),幕府はセイヒツ※注1※の国々において半済をとどめ,戦乱の国における半済について,荘園の支配は本所が行い,年貢の半分を武士に渡すこととした。ついで1357年(延文2・正平12),半済地につき,守護が幕府の認可を得ないで勝手に中分したり,半済を給付された武士が過分に年貢をとることを禁じた。以上,幕府は基本的には,半済を戦乱の国々に限り,半済給人が半済分以上収得することを禁じてきたが,そのような法令を再三発布せざるをえなかったこと自体,幕府の意図を越えて,半済令に便乗する荘園侵略がすすんでいたことを物語っている。しかしながら幕府は武家のみならず公家・寺社をもその成立基盤としていたのであって,武士に半済給付を行わねばならぬとともに,公家・寺社を保護する任務をも負うていた。2代将軍足利義詮が没した翌1368年(応安1・正平23),幼少の新将軍義満を補佐した管領細川頼之は,義詮の遺命と称して勅許を得,6月17日半済に関する詳細な法令を発布した。応安法では,[1]天皇・上皇領,寺社一円仏神領,摂関職付帯の所領,[2]先代義詮のときに半済を行っていなかった本所領,[3]廷臣が幕府から給与された地頭職の地に半済を施行することを禁じた。そして上記以外の本所領については,これまで時限立法であったことを止め,土地支配は本所方の職員に行わせ,年貢半分のみを半済を与えられた武士に交付することとした。幕府はこの応安半済法の実施に意欲的で,9月17日国々の守護代を召致し,現在半済を行っている寺社領は同月中に寺社に返付させるよう命じたことが知られている。こののち1392年(明徳3・元中9),備後国で1国の法として半済が行われた事実はあるが,応安令以後の幕府の法令は残っていない。半済法の施行が動揺する荘園制社会にどのような影響を与えたかについては,種々の考え方がある。その一つは,半済令発布により,武士の全面的荘園侵略が,年貢半分の割譲という形で抑制されるという見解である。けれども他面,これまで武士による侵略を受けていなかった荘園本所領にも半済が行われることになり,あるいはこれまで私的侵略であったものに法的な裏付けを与えて荘園の解体を促進した点も,半済令施行の効果として評価しなければならない。半済法の意義は守護大名の領国制形成に役立った点にある。幕府が半済を行う国を指定すると,その実施は守護に任せた。守護は管国内の武士に,自分の判断で,半済地を割当て給付することができ,したがって本来は幕府による給与地であったのだが,あたかも守護の恩給地であるかのごとく受取られ,守護と受給武士とのあいだには半済地を媒介とする主従関係ができることにもなりえた。応安法にみる半済地の恒久化と,幕府の権威の低下に伴って,守護の地方職員から領国形成者への性格転換はしだいに進んでいった。
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