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●藩政改革 はんせいかいかく

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 江戸時代から明治初年にいたるあいだに諸藩において行われた政治改革。広い意味では藩政確立期の本百姓体制の創出・維持をめざす改革も含まれるが,一般的には,江戸中期以降,表面化した藩権力の弱体化・藩財政の窮乏などの危機打開をねらって行われた藩政の改革を意味している。幕藩体制の基礎は,基本的には自然経済に立脚する本百姓経営にあり,そこから貢租たる米を徴収することによって支えられていた。したがって本百姓体制の維持が基本政策であった。しかし,元禄期以降の貨幣経済の発展は農業生産力の上昇とともに農村に貨幣経済の浸透をもたらした。この農民的商品経済の展開が,藩財政の基礎である本百姓経営を分解させるにいたるのである。したがって,江戸時代における藩政改革の基本的方向は,まず本百姓経営の維持・安定をはかり,その上に生産物地代原則を貫徹した年貢・諸役の収奪体制を確保すること。ついで家臣に対する地方知行を廃止あるいは,形骸化することによって,家臣のもつ在地支配権を否定し,制限して,藩権力が直接的に領内の農民を掌握すること。さらに藩財政の窮乏に対応して種々の消極的・積極的な経済政策が,質素倹約から殖産興業にいたるまで展開されるのである。

【初期藩政改革】藩体制の成立が,大名の歴史的事件によって多様であったごとく,初期藩政改革は藩の性格や地域性によって多様である。たとえば米沢藩の例をみると,上杉氏が春日山城時代からの多数の家臣団を会津そして米沢に減転封される中で,顕在化した諸矛盾に対応しなければならなかった。1638年(寛永15)領内総検地を実施し,年貢増徴をはかったが,農民の強い抵抗にあい,藩はいわゆる「明暦の改革」を強行した。それは半石半永の年貢の半永(銀納)分は,米銀換算率を引き上げ,役屋を廃した。そして村ごとに給人別あるいは蔵入処分の精密な年貢諸役を書き出させ,生産性の低い土豪・役屋層を分解し,小農経営を維持できない零細農を潰して,労働の集約度の高い年貢負担可能の農民のみをもって小農経営をつくりあげようとはかったのである。

 加賀藩においても,1657年(明暦3)までに一連の「改作仕法」と呼ばれる改革が実施されている。怠け百姓の追放,農民の訴えや徒党を禁圧し,十村(とむら)の権限を強化し,耕作に必要な米・銀を藩庫から貸与して耕作奨励をはかる一方,検地によらずに年貢率や村高を引き上げ,また藩士の知行割替を断行し,給地の年貢率を公定して農民との結びつきを断ち,地方知行の形骸化をはかった。

 肥後藩の場合は,藩財政の破綻に対応するため,五分の一借知,給人の年貢直接徴集権の廃止,職制の大改革など地方知行制の形骸化・財政制度の整備などが進められた。

【中期藩政改革】1700年前後から,農業生産力の上昇に応じた貢徴増徴をはかる一方,商品経済の発展に順応した対策をとり,藩独自の特産物中心の殖産興業政策を進め,そのうえに立って藩営専売制などがとられていく。

 佐賀藩では,1751年(宝暦1)すでに借銀が1万貫を超え,藩の銀収入の67%を占め藩財政を圧迫していた。

 1770年(明和7)鍋島治茂の襲封によって藩政改革が開始されたが,当初は借銀凍結・運上銀の増徴などの彌縫策にとどまり,財政好転はみられなかった。

 1784年(天明4)ようやく経済政策の転換がなされ,国産奨励機関である「六府方」が置かれ,「国益」思想に立ち農民的商品生産の積極的奨励にふみきった。植林や櫨・・紙・蝋・薬種などの特産品の増産によって,領内自足をはかるというもので,積極的な藩外売却をねらうまでにいたっていなかった。そのため,一時的に財政は好転したが,1795年(寛政7)ごろから再び悪化してくるのは,改革がまだ藩体制の構成的矛盾にふれない一時的な手直しにとどまっていたためであった。これはこの時期他藩に共通する問題でもあった。さらにこの時期にみられた特色は,熊本藩主細川重賢(銀台)と堀勝名,米沢藩主上杉治憲(鷹山)と莅戸(のぞきど)太華(九郎兵衛),松代藩主真田幸弘と恩田杢(もく),秋田藩主佐竹義和と匹田定常のような「名君」と「賢宰」の合作ともいうべき藩政改革が展開したことである。この場合,改革を進めた主体的勢力は,上士層の改革分子と結んだ譜代中士層であるが,その中心的役割を果たした人々には,藩主からその能力を認められ,政治的手腕をかわれて低い地位から抜擢された,いわゆる「新儀出頭人」であることが少なくないのは,これまでの藩政担当の能力を欠いた門閥上士層に対する中・下級武士層からのつきあげという性格をもっていたことは注目される。しかし,権力の集中強化・綱紀の粛正・行政組織の整備・主穀農業の増産・商業的農業の奨励・国産の助成と専売・文教面の改革などがめざされたが,藩政の根本的改革にいたらないのみか,結果的にはかえって本百姓経営のいっそうの分解をもたらし,また藩権力の特権的商人との結びつきは藩政の腐敗ををもたらすにいたったのである。

【後期藩政改革】天保期以降,幕藩体制の矛盾はさらに拡大・深化し,農民的商品経済の著しい進展に伴い領主・農民の基本的階級対立は激化した。その中で藩財政の窮乏が商人資本と結んで腐敗する一方の藩政に対して,厳しい批判が高まり,商人資本排撃の意識を生み,さらに下級武士の改革派が登場する形態をとって各藩の藩政改革が行われた。そこにみられる特色をあげるならば,[1]藩財政に食いこんだ特権商人の抑圧と赤字財政の解消,[2]本百姓経営の再創出と藩の統制力の強化,[3]中・下層武士からの人材登用策の結果として門閥上士層との対立激化,[4]対外危機の深刻化に対応する海防問題と軍事改革への着手,[5]とくに西南雄藩における改革の成功などがあげられる。この時期を代表する西南雄藩としては,薩・長・土・肥の4藩があげられるが,その典型的な例として長州藩の例をあげる。長州藩は,農民的商品生産が畿内につぐ高い発展を示した瀬戸内海地域を含む。藩政改革が,全藩的な天保の大百姓一揆を直接の契機として開始されたのは長州藩のみである。それほど危機は深刻化していた。天保大一揆藩専売制の厳しさに対する集団的反抗であり,代表的特産品たる「防長四白」(米・塩・蝋・紙)や藍玉・菜種・綿・綿織物などへの強固な統制に対する農民経済の自由化の要求でもあった。1838年(天保9)中士層の村田清風が中心となって改革政治は実施されたが,彼は天保一揆の要求に譲歩し,専売制を部分的に緩和し,若干の免租を行うとともに藩財政の現状を公開して改革支持の空気を醸成しようとした。さらに藩士の免債を藩が肩代りし,商人・職人の営業を許可制にして封建的統制を強め,一方で下関に越荷方・物産惣会所を設置し,他国商船に高利貸を行った。8年後,藩財政は好転し,さらに動揺する藩権力の再編・強化が可能となり,折からの対外危機感の中で改革派による藩軍備の近代化が進行し,高島流砲術を採用した大演習の成功にまでいたった。こうした過程は西南雄藩に共通している。さらに対外問題が切迫し,ペリーの来航後の軍事中心の安政の改革をへて幕府と対抗し得る基盤が形成され,雄藩は幕府支配の規制から脱して自立化の道を歩みはじめ,ついには藩権力の指導者が明治維新の推進者となり,雄藩が連合して幕府を倒壊させるにいたったのである。

【明治維新と藩政改革】1868年(明治1)からの戊辰戦争は藩体制に決定的な打撃を与えたが,維新政府は直ちに藩治職制をだして藩の統制を強め,藩機構の統一,藩行政と藩主の家政の分離,議事制度の奨励などを行い新政府の権力浸透をはかった。1870年(明治3)には「藩制改革」を布達したが,これによって大・中・小藩に区分され藩高の10分の1が知事の家禄とされ残りが軍事費・藩庁費・俸禄などにあてられた。これらの改革は中央政府の統制強化が狙いで,版籍奉還廃藩置県が実施されるや,藩体制は解消するにいたった。

〔参考文献〕堀江英一『藩政改革の研究』1953

田中彰『幕末の藩政改革』1965

山口啓二・佐々木潤之介『幕藩体制』1971