●藩政 はんせい
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江戸時代,大名の支配する領域において展開した政治過程および支配体系。大名領を「藩」と称したのは,幕藩体制を中国の封建制にみたてて,諸大名を幕府の「藩屏」と考えるようになった幕末以来のことといわれる。藩主である大名(1万石以上の身分)は将軍との親疎によって,三家・家門・譜代・外様に分かれており,それぞれの成立過程や,転封の有無によって藩政も異なっている。また石高の大小や藩域の一円性,定着性の度合いによっても異なっている。しかし,いずれの場合も基本的には,藩政を維持するために(1)藩権力機構の確立,(2)藩領国の基礎構造の確立,(3)藩財政の確立などの条件が必要であった。【外様大名の藩政】外様大名にも中世以来の系譜をもち,戦国大名から近世大名となった旧族大名。また戦国末期から統一過程での織豊取立大名に由来するものとがある。旧族大名は幕府の脅威と重圧のもとで,しかも東北・中国・九州の辺遠の地にあって未熟な小農自立と兵農分離体制下に藩政の確立につとめた。藩権力の集中強化を図るため,城下町に全家臣団を集住させ,番組制をしいて勤番体制を固め,さらに直属兵力として足軽鉄砲組を補強した。しかし中世的な在地領主制は,地方知行制とともに根強く残存したところが多く,保守的な門閥譜代層と改革的新参層との家臣団内部の対立抗争をひきおこす例も少なくなかった。藩権力の基盤たる農民の直接支配を図るためには,蔵入地の拡大をはかり,家臣団の一部を追放したり地方知行地への制限を強め,しばしば知行替を行い給人の恣意的な支配や夫役を制限し,機をみて蔵入地化と俸禄制への転換をすすめた。そして新田開発と総検地による石高の増加を推進し,実際の生産高は,公認された表高の2倍を前後する藩が多かった。さらに年貢外収入をはかるため,城下町の振興・鉱山開発・山林経営にも力を入れた。このような多様な藩政の展開に対応して,家老・奉行・郡方・町方・山方・勘定方などの行政組織が整備されていった。織豊大名の多くは,関ケ原の戦いで没収された跡地に転封させられ,前代以来の根強い在地領主制のうえに困難な地方支配を強いられた。加賀の前田・肥後の加藤などはそれを乗り切って藩政を確立したが,新参家臣の多い家臣団の統制の弱さが越後の堀・肥後の加藤のように二代目以後に現れ,幕府の改易をうけた例もあった。
【一門・譜代大名の藩政】外様大名とくらべて,一門・譜代大名はいわば三河以来の「徳川家中」が大名として拡大再生産された形をとっている。したがって藩の成立段階から,幕藩体制の原則にもとづく総検地がなされた条件のよい領国を与えられ,藩権力と農民のあいだには直接的な支配関係が成立しやすかった。家臣団の形成にあたっても,徳川宗家の譜代衆を与力・同心として付与されたり,築城にあたっては,外様諸大名からの普請役を動員してもらうなど,直接・間接の幕府の援助があった。したがって,幕府に対して「徳川家中」の意識は濃厚であったが,その反面,藩家臣団としての「家中」意識は希薄であったといわれる。これらの藩では加増のたびに新参家臣を多く召し抱え,また頻繁な転封がおこなわれたため,領国と深く結びついたお国意識は生じにくかった。それは譜代大名が幕府にとって広義の常備軍として意義づけられ,その配置のみならず軍役体系も譜代大名を対象として作られていたといわれる。知行制も外様大名にくらべ地方知行制を残す藩がきわめて少ないのは,生産力の高い地域と転封の繰り返しが理由と考えられる。
【藩政確立の特色】初期の藩政確立に一応の成功をおさめた会津藩(保科正之)・岡山藩(池田光政)・水戸藩(徳川光圀)らのいわゆる「名君」の藩政は,政治・経済的条件にくわえて,儒教の政治理想をかかげ家中,領民を通じて幕藩身分制秩序の確立をめざしていた点に特色があった。それに失敗した場合が,伊達騒動・越後騒動・黒田騒動・鍋島騒動などに代表される御家騒動であり,それを克服することが藩政確立の課題でもあったのである。