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●反宗教改革 はんしゅうきょうかいかく

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 宗教改革に対抗するためのカトリック側の措置と改革。カトリック系の学者は「カトリック宗教改革」と呼ぶが,この場合には宗教改革とほぼ同時期に始まったカトリック教会内部での革新運動もそれに含められる。

【カトリック教会の革新運動】ルネサンス末期のイタリアでは教会の弊風の刷新や修道会の理想に立ち帰ろうとする運動がおこっていた。1517年に人文主義的教養をもつ聖職者・俗人知識人によってローマにつくられた神愛オラトリオ会は厳格な生活と慈善活動を目的とし,それにつづいてテアティノ会(1524設立)・カプチーノ会(1528設立)・ソマスコ会(1532設立)・ウルスラ会(1535設立)などの修道会がつくられ,それらはより活発に社会的活動を行った。これらの一連の新設修道会のなかで最も著名なものが1534年に設立されたイエズス会である。それらは宗教改革とは直接の関係なしに設立されたのであるが,そのなかからは反宗教改革の指導的人物や,反宗教改革で重要な役割を果たす修道会が現れることになる。

【教皇庁の対策】宗教改革に対するローマ教皇庁の反応は敏速であったとはいえない。教皇庁がカトリック教会内部の改革に取り組み始めたのは,1534年にパウルス3世が教皇となってからである。彼は神愛オラトリオ会の創始者であるピエトロ=カラファやカスパロ=コンタリーニを枢機卿に任命し,1536年改革を審議する委員会を発足させた。しかしその委員会の提案も,1542年ローマに異端審問所がつくられたことをのぞいては実行に移されなかった。この異端審問所ジョルダーノ=ブルーノを焚殺し,ガリレイ地動説を取り消させたことから知られるように,1559年につくられた「禁書目録」とともに,反宗教改革の強圧的な一面を示す。しかしカトリック教会の立ち直りという観点からは,2回の中断期をあいだにはさんで1545年から1563年まで継続したトリエント公会議のほうがはるかに重要である。その公会議は教義問題の審議に重点を置き,神の恩寵を得るには信仰だけではなく人間の自由意志にもとづく善きわざも必要であるとして,ルターの信仰義認論を退けたほか,教会の伝統に聖書と並ぶ重要性を認め,ラテン語聖書(ヴルガータ)を信頼すべき正典とし,教皇のみが正統的教義の決定者であるとした。それらの決定はプロテスタントの教義を否定し,それとの相違を鮮明にする方向でなされたといえる。しかし公会議は教義問題の審議だけで終わったのではなく,司教の任地居住義務や複数の聖職禄の保有禁止,司祭の教育機関としての神学校の設立などをも決定して,教会腐敗の原因となってきた悪習を廃止し,聖職者の質の向上をはかることにした。

【反宗教改革の展開】トリエント公会議の決定を生かしていくためには,聖職者の信仰の高揚と積極的活動とが伴わなければならなかったが,それはイエズス会の設立につづく三位一体会(1548)・オラトリオ会(1564)の設立,カルメル修道会の刷新となって現れた。しかし反宗教改革の発展に大きく貢献したのはとりわけイエズス会であった。イエズス会は神と教皇の戦士として宣教につとめることを目的として,イグナティウス=デ=ロヨラによって創設された修道会であるが,厳格な訓練のみならず学問の研究をも重んじ,行動力と学識のある優れた聖職者を輩出させた。フランシスコ=ザビエル(シャヴィエル)そのほかのイエズス会士の来日で知られるように,イエズス会は海外での伝道に熱心であったが,カトリック教会の失地回復を志す教皇の要請を受けて,ヨーロッパの諸国にも多くの会士を派遣することになった。彼らはあるいは君主の聴罪司祭となり,あるいは多くの学院を設立してカトリック教会の再建と復興のために活動し,とくにドイツではカトリック教会から離れた多くの人々を教会に復帰させることに成功した。オーストリア=ハプスブルク家はカトリック教会を支柱にして権力の回復と拡充をはかり,プロテスタントを圧迫して三十年戦争の発端となったボヘミアの反乱を招いたが,カトリック教会の再建と絶対主義を志向する君主の政策とのこのような密接な関係も,反宗教改革の重要な局面である。

〔参考文献〕中村賢二郎「カトリック教会の改革」『岩波講座世界歴史』15,1969,岩波書店