●ハンザ同盟 ハンザどうめい
ヨーロッパ ドイツ連邦共和国 AD
中世後期に北ドイツを中心に北海およびバルト海地域諸都市が北欧遠隔地商業の発展と共通の利益を守るために結集した同盟で,経済だけでなく政治の分野でも北欧における最大の勢力をなした。ハンザの古語(hansa)は「群れ」を意味するが,12世紀以後は外国に特権を獲得した商人の同業者組織をさすようになり,これらの諸商人ハンザを含めた都市の同盟が1356年から正式に「ドイツ=ハンザ」と称される。【成立】ドイツ商人は11世紀より北欧商業を積極的に発展させ,12世紀半ばにはロンドンにケルン商人のハンザが,ブリュージュにリューベックおよびハンブルク両市商人のハンザが,そしてゴトランド島のヴィスビーに諸都市商人共通のハンザがあった。12〜13世紀にドイツ東方植民の進展とともにバルト海沿岸に多数の都市が建設されバルト海商業の発展をみると,ドイツ商人はその交易路の中心的位置を占めるヴィスビーからロシアにまで往来した。商人ハンザの発展は彼らの母市の繁栄を促進させ,やがて諸都市のあいだには相互の安全保障と自治権の維持,またたがいの競争の排除などを目的とする同盟が結ばれていった。1241年のリューベック=ハンブルク都市同盟を端緒として,その後いくつもの都市同盟が結ばれて同世紀の末にはそれらの大連合組織が成立するが,その担い手はもはや商人ハンザではなく都市であった。同盟は北海・バルト海の商業を独占し,その独占を脅かす諸力には戦闘行為をもってしても対抗してこれを取り除いた。とくに1368年からデンマークと戦いストラールスント条約(1370)で勝利を収めて以後の約1世紀間,同盟は北欧における最強の政治権力であった。
【商業】同盟所属都市のなかで最も指導的地位を占めるのはリューベックで,これと並んでケルン・ブラウンシュヴァイク・ダンツィヒが有力であり,そのほかに約70の都市が同盟の中核をなし,さらにゆるやかな関係をもって約100の都市が参加した。同盟は成文化された規約や強固な統制組織はもたず,また特別の同盟軍があるわけではなく,戦時には各都市が軍事力を提供した。最高の指導機関として1363年以降ハンザ会議が不定期にリューベックで開かれ,必要に応じて地方会議を開催した。ロンドン・ブリュージュ・ベルゲン・ノヴゴロドに主要在外商館を置き,ほかにも貿易拠点に居留地があった。これらの商館を中心として商人たちの取り扱ったおもな商品は,ロシア・東ヨーロッパ産の毛皮・蜂蜜・蝋(ろう)・木材,スカンディナヴィア地方の干タラと塩漬ニシン,フランドル地方の布地とブリュージュに運ばれてくるオリエント商品,イギリスの羊毛,そしてドイツのワイン・穀物および手工業製品などである。
【衰退】15世紀以後,同盟は衰退過程に入る。各都市は内部では商人層の寡頭支配に対するツンフトそのほかからの対立抗争という問題をかかえ,対外的には国家的主権を強める領邦君主と激しく対立することになる。こうして始まる諸都市の弱体化は同盟にも影響し,もともと強固でない組織をいっそうゆるめていった。加えて絶対主義諸国はその重商主義政策を進めるにあたってハンザ商人の特権を奪い,国民国家への展開と国内産業の振興に支えられた外国商人の進出に対する同盟の競争力は弱められた。すでに1441年に同盟はオランダ商人のバルト海航行を認めねばならず,また1487年にはノブゴロドの商館を放棄し,それは1494年に閉鎖された。16世紀になると,同盟はスウェーデン・デンマーク・イギリスでの特権を失い,ブリュージュからも後退した。そして1598年にはロンドンの商館も閉鎖されて,このとき同盟は事実上解体する。
最後のハンザ会議はなお1669年に開催されるが,そのあいだに諸都市の領邦国家への服属は進み,三十年戦争以降もハンザ都市の名称と自治権を維持するのは,リューベック・ハンブルク・ブレーメンの3市のみであった。
〔参考文献〕関谷清『ドイツ・ハンザ史序説』1973,比叡書房
高橋理『ハンザ同盟』1980,教育社