●バンコク朝 バンコクちょう
AD1782
バンコクを都とするタイの現王朝(1782〜)。チャクリ王朝・ラタナコーシン王朝ともいう。1982年に王朝200年記念祭を盛大に祝った。【鎖国期】1767年にアユタヤ朝(暹羅)を滅ぼしたビルマ軍を中国系タイ人タークシンが撃退し,チャオプラヤー河下流域のトンブリに都を移したが,1782年その部将ラーマティボディが王位を奪いラーマ1世(在位1782〜1809)と称し,トンブリの対岸に都を築いた。彼は前王朝以来の各種法令を集大成し『三印法典』を編集(1805),またインド叙事詩『ラーマヤナ』のタイ語訳『ラーマキエン』を完成するなど王朝文化の基礎を固めた。19世紀前半のラーマ2世(在位1809〜24),ラーマ3世(在位1824〜51)期になると,欧米人が来航し制限つきながら開港を認め欧米人の居留を許す条件で和親修好条約をイギリス(1826)・アメリカ(1833)と結ぶ事態となった。かかる植民地化の危機に直面したラーマ4世(在位1851〜68,別名モンクット王)は欧米文明を進んで取り入れた開明君主で,イギリス特使ボウリングとの条約(1855),アメリカ特使タウンゼント=ハリスとの条約(1856)および西欧諸国との同様な諸条約(1870まで)を締結して開国し,自由貿易への門戸を開放した。当時の日本が欧米諸国と結んだ修好通商条約と同じ不平等条約のもとで,王室独占貿易は衰え,王族の貿易権益が崩れるとともに,アジア植民地向けのタイ米輸出を増進するためのデルタ地域運河開拓に迫られ,国内に政治経済変動の波が押しよせた。仏教社会でもタンマユット派が現れ宗教改革の動きが国王指導のもとで展開した。
【文明開化期】ラーマ5世(在位1868〜1910,別名チュラロンコン大王)は明治天皇(在位1868〜1912)と同時代に文明開化を進めた大王で,ドレイ解放,中央・地方行政と財政の近代化,通貨・郵便電信・鉄道・学校・病院などの西欧化,徴兵制の導入をはかった。国境領土をイギリス・フランスへ譲ったが,植民地化を免かれ独立王国を保ち,絶対君主専政制の王族政治を保持した。ラーマ6世(在位1910〜25)は西欧留学経験を生かし愛国精神を唱導して国王・宗教・国民の三身一体を表す国旗(3色旗)の制定,スワパー(国防義勇軍)の創設,東洋のユダヤ人と呼ぶ華僑への批判などを行い保守的な王族の抵抗を受けた。ラーマ7世(在位1925〜35)期には立憲革命(1932)がおこり,立憲君主制へと変革したが,新体制に不満な国王は1935年退位を宣言した。この革命はフランス留学中のタイ平民出身者が人民党を結成し,青年将校や若手官僚を集め王族政治を打倒したものであるが,立憲政治を支える政党活動は芽ばえなかった。
【戦中・戦後期】ラーマ8世(在位1935〜46)期にはピブン戦時宰相(在任1938〜44)が国民精神総動員運動を指導し,国家信条のなかで国号をシャムからタイヘ改称(1939),華僑同化を促進,民族産業を奨励し,あわせてビルマのシャン族を含む汎タイ民族統合を唱えた。1941年末に日本軍が駐留したとき,日−タイ攻守同盟を結び(1941),アメリカ・イギリス両国へ宣戦布告(1942),国境領土返還を果たした(フランス領1940年,イギリス領1943年)。1944年〜45年自由タイ抗日地下組織が連合軍と協力し,終戦にさいし先の宣戦布告を日本に強要されたものとして取り消した。1946年に前王の急死により即位した現国王ラーマ9世(在位1946〜)のもとで,タイは戦災復興・戦後民主化・国際社会への復帰に努めた。戦争犯罪人として逮捕されていたピブン元帥は釈放後政界復帰し政権(在任1948〜57)を担当,反共親米政策をとりアメリカの軍事・経済援助により産業開発にのりだした。ピブン政権の汚職を批判し1957年政変で首相となったサリット(在任1958〜63)は民間産業の奨励,農村社会の開発,外資導入による工業化を進め,1970年代には軍人・官僚の政治を批判した文民政権(1973〜76)ののち,再び軍人色の強い政権がつづき現在にいたっている。
〔参考文献〕萩原弘明・和田公徳・生田滋『東南アジア現代史IV ビルマ・タイ』1983,山川出版社