●ハンガリー
ヨーロッパ ハンガリー共和国 AD
東欧中央部にある人民共和国。【国土】面積は9万3,060平方km,わが国の四国と九州を合わせた程度(わが国の約4分の1)である。人口は1,000万人を少し超えるほどで,北はチェコスロヴァキア,北東はソ連,東はルーマニア,南はユーゴスラヴィア,西はオーストリアの5国と国境を接している。海に面してない内陸国であり,首都はドナウ川に沿った左右の市を合わせたブタペスト。
【自然と住民】一般的にいえば,西部が丘陵地で東にむかうにつれて低くなっていく盆地状で,国土の大部分が肥沃な平野である。西はアルプス,南はユーゴスラヴィアにあるジナル=アルプス,北と東はカルパート(カルパチア)山脈に囲まれている。このため,気候は大陸的であるが,場所によっては海洋的であり,変化に富んでいる。冬期は大陸性高気圧に覆われて寒く,風は弱いが,降雨量は全般に少ない。とくに中部・東部では年平均で450mm程度である。このため干ばつ対策は重要で,大規模な水路がつくられ,国土の70%をこえる農地に給水している。国の中央部をほぼ北南にドナウ川が流れ,西部ではその支流ラアブ川が北にむかい,東部ではティサ川が南に流れ,重要な水路となっている。西部にある細長いバラトン湖の北部は,アルプスにつづいているバコニ森で,ブナやクリが多い。住民の98%まではウラル=アルタイ系のマジャール人で,残りがスロヴァーク人・ドイツ人・ルーマニア人・セルビア人・クロアティア人・ジプシーである。早くからドイツ人・ユダヤ人が来住して活動していたが,第二次世界大戦後は著しく減少し,マジャール人のみの単一民族国家になったといってよいが,マジャール人自身が長い歴史のなかで混血し,文化的には西ヨーロッパの影響,とりわけ,オーストリア=ハンガリー帝国を形成したほどであるので,ドイツ・オーストリアの影響が強く,言語はマジャール(ハンガリー)語。宗教は戦前までは68%がローマ=カトリックで,残りの大部分はプロテスタント諸派であったが,第二次世界大戦後,教会の活動は著しく制限され,1960年以後,自由化の傾向がでてきた。
【ハンガリーの起源】マジャール人はウラル山脈付近にいたと考えられるが,民族移動期に南下し,9世紀には西進して定住し,国家を形成した。これをハンガリーという土地に入ってきた民族で整理すると,古代ローマ帝国領のパンノニアであったところへ,4世紀になると,アッティラに率いられた匈奴が移動してきた。アッティラの死後,匈奴は東に去り,6世紀にはアヴァール人が支配した。カール大帝によって,アヴァール人が敗れて東方に引き上げた。遊牧民族であるマジャール人はこの空白の地に侵入し,スラヴ人を排除して,896年アールパード朝のハンガリー王国を建てたのである。東から,また西から,民族と文化が交差していた地域に建国したハンガリーの歴史は,それゆえに揺れ動くのである。さらに,西から東進してきたドイツ人のオーストリアや,ローマ人の子孫の国ともいうべきルーマニアとともに,スラヴ人が展開している東ヨーロッパの東西中央ゾーンに,非スラヴ地帯を形成した。これが16世紀以後,オスマン=トルコの北進を阻止することになる。
【アールパード王朝】パンノニアを根拠地にして,イタリアやライン地方にも進出しようとしたハンガリーはオットー1世に敗れ,ハンガリー平原の国家となり,ゲーザ(在位972〜997)のとき,内紛を収めて統一国家となった。イシュトバーン(在位997〜1038)はこの国家統一をさらにすすめ,キリスト教を受け入れて,1001年ローマ教皇から王冠を授けられた。しかし彼の死後,王位継承をめぐる争いがつづき,しばしばゲルマン人の援助を要請している。内紛を収めて即位したラースロー1世(在位1077〜95)や次王カールマーン(在位1095〜1116)はスロヴァキア・トランシルヴァニア・クロアティアに勢力を伸ばし,東ヨーロッパの大国になった。一方,このころは聖・俗大貴族が形成されるときでもあった。ハンガリー大貴族はポーランドの大貴族とともにマグナートと呼ばれ,王権にも干渉できるほどの力をもっていた。エンドレ2世(在位1205〜35)は1222年,金印勅書を出して貴族の特権を認め,これと妥協した。13世紀なかごろのモンゴルの侵入は国土を荒廃させ,貴族権が強くなって封建制が進行していった。ベーラ4世は国土の再建につとめたが,エンドレ3世の死(1301)をもって,アールパード王朝は絶え,貴族と外国勢力がいり乱れての後継者争いが行われたが,ナポリのアンジュー家のローベルト=カーロイの即位(1308)をもって,選挙王制の時代となった。
【外国系王位】カーロイ1世(在位1308〜42)はボヘミア王国やポーランドと結んでハプスブルク家に対抗した。次のラヨシュ1世(在位1342〜82)はダルマティア・バルカンを征服しバナトと呼ばれる特別地区を国境に置き,1370年にはポーランド王も兼ね,アドリア海や地中海にも進出して,ジェノヴァと結んで1381年にヴェネツィアと条約を締結した。これによって,ハンガリーは東ヨーロッパ第1の王国となり,彼は大王と称されるが,それでも大貴族の勢力は根絶できなかった。ラヨシュの死後,子供のマリアとナポリ王カルロ=ディ=ズラッツォのあいだで王位を争った。クロアティア貴族の支持を受け,ハンガリー南部を支配したズラッツォが優位に立ったが,ナポリの力を恐れたヴェネツィアが干渉してマリアが復位した。内部の分裂が外国勢力の干渉を招く様子が十分うかがえる。マリアは夫であるルクセンブルク家のジギスムント(在位1387〜1437)を王位につけた。ジギスムントは1410年に神聖ローマ皇帝になっているが,都市勢力と結んでマグナートを抑えようとして,これがアグナートの反発を招き,さらには貴族間の分裂をも生じさせた。
【トルコの侵入】トルコの侵入は1241年のムヒの戦いでハンガリーのベラ軍が敗北したときから始まっていた。このときはモンゴル王(カーン)の急死によって,モンゴル軍が引き上げたが,1396年におこした対トルコ十字軍はニコポリスの戦いで破れ,ジギスムントにボヘミア王をもたらしたが,ヴェネツィアにダルマティアを与え,トルコ勢力をドナウ線まで北上させる結果となった。1444年対トルコ十字軍をおこしたポーランドのヤゲロー朝のウラースロー1世(ポーランド王としてはウワディスワフ6世)はヴァルナで敗れた。1456年の対トルコ十字軍はトランシルヴァニアの貴族フニャディとカピストラーノの手ですすめられた。フニャディはベオグラードを占領したが,その年に死んだ。その後,ハプスブルク家支持貴族と民族派貴族のあいだで争いがおこったが,フニャディの子マーチャーシュ(在位1458〜90)が王に選ばれた。彼は財政上の改革をすすめ,トルコに対する諸国の結束を訴え,一面ではトルコと和し,学芸を保護したので人文主義者が宮廷に集まり,コルヴィーナ文庫を創立して,ルネサンスの中心をハンガリーに移した観さえみえた。彼の死後,ヤゲロー朝のウラースロー2世が王位についたが,貴族間の反目が絶えず,ラヨシュ2世はプロテスタントの拡大に悩まされた上に,1526年8月のモハチュの戦いで敗れ,敗走中に死亡した。このため貴族の内紛は激しくなり,1541年には,この機を利用したトルコのスレーマン1世がブダ市を含むハンガリーの大部分を占領した。この結果,ハンガリーはトランシルヴァニアを失い,ハプスブルク家のフェルディナントも,1568年アドリアノープルの和約をトルコと結んで貢納を約した。
【ハプスブルク王朝】ラヨシュ2世が死ぬとハプスブルク家出身でカール5世の弟にあたるフェルディナント1世がラヨシュの義兄にあたるところから即位したが,ポーランド人の選んだサーポヤイ=ヤーノシュと争い,両者は1528年のナギャヴァラドの和約で相互に認め合うようになったが,サーポヤイは1540年に死亡した。進出していたドイツ人がドイツ人王を望み,それに民族的な力が反発したものといえる。フェルディナントはボヘミアでは王と認められたが,トルコは1529年ウィーンを包囲した。宗教改革から三十年戦争にいたる16〜17世紀に,ハンガリーではカルヴァン派が優勢になったこともあったが,結論的にはローマ=カトリック化をすすめるハプスブルク家に統一された。ハプスブルク家はトルコと結んでトランシルヴァニアを圧し,トルコがウィーンを包囲(1683)したのを撃退して反撃し,1686年にはブダ市を奪回した。さらにハンガリー・トランシルヴァニアのトルコ軍を圧迫して,1697年セダンの戦いで勝利して1699年にカルロヴィッツ条約を結んでハンガリー王国領の大半を手中に収め,王位継承権を認めさせた。ハンガリー貴族はスペイン継承戦争を利用して,ラーコーツィをおしたてて抵抗したが,1711年のサトマールの和約でハプスブルク支配を認め,カール6世(在位1711〜40)は逆に,ハンガリーの伝統と貴族の特権を認めて妥協した。
【啓蒙思想と革命】マリア=テレジア(在位1740〜80)はオーストリア継承戦争におけるハンガリーの協力の功として,貴族の特権を認めた。次のヨーゼフ2世(在位1765〜90)はプロテスタントが商・工業活動するのを認めた寛容令を発し,農奴を解放したりする啓蒙専制政治を実施した。しかし一方では官庁や学校でのドイツ語強制などのドイツ化政策をとったので,1788年には反乱がおこった。レオポルド2世(在位1790〜92)はハンガリーの自治を承認しなければならなかった。啓蒙思想の普及とフランス革命やナポレオンの影響で,ハンガリーには民族的自覚が強まってきた。ただし,大貴族の勢力が強く,封建制の支配するこの国では,中産的市民層がナショナリズムの中核になったのとは対照的に,封建貴族が支配したかつての栄光をとりもどそうとするものになりがちで,クロアティア人やセルビア人などの小作人の支配を前提にしていた。大貴族で自由主義的なセーチェニーは改革主義の立場をとったが,急進的なコッシュートはハンガリーの完全独立を求め,デアークがそれらを調和する立場にいたといえる。1848年3月3日,二月革命の報を受けたコッシュートはプレスグルク(ブラチスラヴァ)で,オーストリア打倒の演説を行い,3月13日ウィーンで三月革命がおこったのを機に,諸要求を提出して,オーストリア政府を後退させた。独立革命をおこしたコッシュートは一時,独立宣言を発するところまでいった。しかし,ボヘミア・オーストリアで革命を鎮圧したオーストリア政府は,民族の反目を利用して,クロアティア人イエラチッチの協力を得,1849年8月にはハンガリー革命軍を降伏させ,革命は失敗に終わった。
【オーストリア=ハンガリー】イタリア統一戦争に敗れたオーストリアは,ボイスト外相が中心になって,国内のスラヴ系民族を抑えるためにマジャール人と妥協(アウスグライヒ)する構想をすすめ,ハンガリーでもデアークらの穏和派がこれに応じた。1866年の普墺戦争に敗れたあと,1867年6月,これが実現されて,オーストリア=ハンガリー帝国となり,ハンガリーはハプスブルク家の王を戴くオーストリアとの同君連合国となり,軍事・外交・財政は共通するが,独自の政府と議会をもつことになった。この二重帝国のもとで,ハンガリーの支配層はスラヴ系民族を抑圧するためにドイツ人に協力した。19世紀末から,パン(汎)=スラヴ主義に対抗して,ドイツがパン(汎)=ゲルマン主義をとり,オーストリアも同調したが,ハンガリー支配層は,それに結果的には協力して,第一次世界大戦に突入していった。
【第一次世界大戦後】第一次世界大戦末期の1918年11月,クロアティア・スロヴァキア・ルーマニアがハンガリーからの離脱を宣言し,ハンガリーもオーストリアからの離脱を宣言した。11月16日にはカーロイを臨時大統領とする共和国が発足し,敗戦処理にあたることになった。1919年3月には,ロシア軍の捕虜になっていて,ロシア革命を経験したクン=ベラが労兵ソヴィエト政権を樹立したが,1920年2月にはホルティ摂政をたてたハンガリー王国が復活し,連合国とのあいだに,ハンガリーにとっては苛酷なトリアノン条約を締結した。この条約によってハンガリーはクロアティアをユーゴスラヴィアヘ,スロヴァキアはチェコスロヴァキアへ,トランシルヴァニアはルーマニアヘと,民族自決の原則によって分断された。王国でありながらホルティは摂政で,王位は空位のままであったし,1920年5月の選挙では,貴族勢力が復活した。これをみたオーストリアの最後の皇帝であったカール1世が復位をはかったが,各国の反対があって実現をみなかった。1922年には憲法が制定されたが,政府の仕事はトリアノン条約の修正におかれていた。フランスを背景にして,チェコスロヴァキア・ユーゴスラヴィア・ルーマニアのあいだで小協商が結成されたのは,ハンガリーがトリアノン条約を修正して復権するのを警戒したからである。孤立したハンガリーは1922年国際連盟に加入し,1927年4月には,イタリアと友好条約を結んだ。
【第二次世界大戦】第二次世界大戦直前の1938年9月,ホルティはチェコスロヴァキアに対して,スロヴァキアの割譲を迫り,第1次ウィーン協定によって,南スロヴァキアを得,1939年2月には日独伊防共協定に加わり,ソ連との国交を断ち,3月にはトリアノン条約で失ったカルパート・ウクライナをチェコスロヴァキアから併合した。第二次世界大戦中,ソ連がルーマニアのベッサラビアを占領すると,1940年8月の第2次ウィーン協定でルーマニアからトランシルヴァニア北部を獲得した。また,1941年春にはセルビアを占領した。ドイツ側に近づいたハンガリーであったが,ドイツの敗色が濃くなると,連合国側と秘かに交渉を開始したため,それを察知したドイツに占領された。ホルティは1944年11月ソ連と休戦協定を結んだが,ドイツ軍に逮捕され,1945年2月にはソ連軍によってブタペストが占領され,ミクローシュがソ連から帰国して臨時政府を樹立した。
【第二次世界大戦後】1946年2月王政を廃して共和国となったハンガリーでは共産党がしだいに勢力を占め,1947年2月には連合国とパリ平和条約を結んで,国境を1938年当時のものにし,1949年1月には経済相互援助会議(コメコン)に加入し,2月には人民共和国を宣言して,ソ連型の憲法を制定した。それは一党独裁とスターリン化をすすめるもので,土地改革に反対したミンドセンティ枢機卿は逮捕された。スターリンの死(1953)後,非スターリン化が始まると,スターリン派のラーコシュとナジュが対立し,自由化の風が強くなった。1956年10月,学生団体「ペテーフィ会」は諸要求を公表し,市民・労働者・学生が警官や派遣されたソ連軍と衝突して,ハンガリー暴動がおこった。ソ連は軍隊を送ってこれを鎮圧した。これ以後,ハンガリーは経済政策に悩みながら,チェコ事件ではソ連に協力し,西ドイツ・アメリカとの関係も改善させてきている。
【文化】ハンガリーの古い文学はあまり伝えられていない。ルネサンス期の人文主義はパンノ=ウス(1434〜72)らに最もよく示される。文学ではバラッシャの叙情詩,ズリーニの叙事詩が代表的で,1848年の革命でも活躍した『英雄ヤーノシュ』の著者ペテーフィに人気が集まっている。哲学者でもあり,文学史をも執筆しているルカーチはハンガリーの生んだ西欧的知性の所有者である。音楽では,国民音楽的なバルトークやコーダイが有名であるが,リストもハンガリー人である。オペラや演劇の水準は高い。
【現代の政治と経済】議会は一院制で国民議会があり,共産党からでてきた社会主義労働者党(1956年勤労者党を改組)のみが政党である。経済相互援助会議(コメコン)やワルシャワ条約機構に加わり,ある程度の自由化をすすめながら,ソ連との関係も良好で,西側諸国とも関係改善に努力している。経済は第二次世界大戦で大きな打撃を受け,戦後,産業の国有化や土地改革をすすめ,1950年以後5カ年計画を立て,生産能率と国際競争力の強化に主眼を置いている。ボーキサイトは世界でも有数の産出国で,地下資源としてはこのほか,石炭・鉄があり,石油も一部産する。工業では機械・車両・冶金・製糖・醸造・セメントなどがある。農業はコメコン内の国際分担に耐え得るもので,小麦・大麦・ライ麦・トウモロコシ・甜菜・ブドウがあげられ,食肉の産出もある。貿易はソ連とのあいだが多いが,2位に西ドイツがあげられ,イタリアやオーストリアとの貿易額も相当な水準に達していて,東ヨーロッパ諸国のなかでは,西側との貿易が多い。通貨単位はフォント。
〔参考文献〕矢田俊隆編『東欧史』山川出版社
矢田俊隆『ハンガリー,チェコスロヴァキア現代史』山川出版社
笹本駿二・加藤雅彦編『東欧の動乱』平凡社
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