●パン
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【粉食の生誕】パンは米飯とともに人類の2大本食とされているが,このパンの主原料は小麦である。西アジアのオリエントで小麦の栽培が始まったのは,今から約1万年以前のことであったが,これはエジプト・ギリシアをへてヨーロッパにひろがり,さらに東方にもひろがっていった。その小麦がユーラシア大陸の東端に位置する古代中国に到達したのは,約3,000年以前のことであったが,これが東シナ海を横断して西日本に上陸したのは,弥生時代であったから約2,000年ほどの昔ということになる。この小麦が新大陸にもち込まれたのは16世紀の初頭である。こうして小麦食は約1万年という星霜をへて全世界にひろがっていったのであるが,米が熱帯作物であるのに対して,小麦は冷涼な乾燥地帯むきの作物なので,その適地は限定されている。これが主として暖帯と亜寒帯で栽培されるのもそのためなのであるが,これには硬質小麦と軟質小麦がある。前者は寒冷地で,後者は低暖地でつくられるが,前者は発酵パンむきであり,後者は無発酵パンまたはうどん・そうめんなどのめん類むきである。【パンのひろがり】オリエントで小麦の栽培が始まった当時は無土器時代であった。したがって当時の古代人はこれを煮て食べるてだてをもたなかったので,小麦粉を熱く焼いた砂にまぜ,炊(い)り麦として食べた。しかしやがて土器とともに石製の臼・石杵・石皿などが登場するが,これは炒り麦法が,製粉法に変わっていく過程を示すものである。こうして小麦は粉食されるようになったが,初期の粉食は平焼のパンであった。それが発酵パンに変わっていったのは,パン生地を放置しておくとこれに野生酵母が繁殖して膨張をおこす。この点に着目して開発されたのが発酵パンであったが,古代メソポタミアにこれが出現したのは約6,000年以前のことだった。この発酵パンはまもなく,古代エジプトに伝わり,それが古代ギリシアをへて,古代ローマへと西進していったのであるが,初期の野生酵母生地のパンは煎餅状の薄くて固いパンであった。現在アラブ地方で常食されているパンはその延長線上にあるパンである。ところがインドでは無発酵生地のチャパティが常食されている。やはり煎餅状であるが,その無発酵というところがアラブパンとの相異点である。無発酵パンの特色は,小麦粉だけでなく,どんな穀粉でも使えるというところにあるが,これは日本でいう焼餅なのである。これに対し中国のパンは野生酵母生地の蒸しパンなのであって,中国人はこれを初め胡餅(ルビ・・)または蒸餅(ルビ・)といった。胡(ルビ・)は外国をさすことばであり,餅(ルビ・)は穀粉を粉砕したものを併せてつくったものの意味である。現在中国人が常食している饅頭・包子は,この胡餅の延長線上にあるパンなのである。なお野生酵母が工業的に純粋培養されたイーストにかわったのは19世紀に入ってからのことにすぎない。
【日本のパンの由来】日本へのパンの伝来については諸説がある。最も一般的に行われているのは16世紀伝来説であるが,これは南蛮交易時代にポルトガル人が,キリスト教とともにこのパンを伝えたという動かしがたい事実があるからである。キリスト教会の聖餐(せいさん)式にパンとワインは不可欠のものである。そのために耶蘇教とともにこのパン食文化はひろがっていったのであるが,それは主として儀式用のものであった。しかしこれも,17世紀半ばの鎖国令によって,耶蘇教とともに消え去り,わずかに長崎名物の一つとして依存されるにとどまった。この日本語のパンの語源はポルトガル語のであり,その語根はラテン語のパニスであり,そのルーツはギリシア語なのである。ポルトガル交易時代にかわったのは,オランダ交易時代であるが,オランダではパンをブロートといい,英語ではブレッドという。また中国語ではこれをミエンパオ(麺包・麺麭)というが,日本ではオランダ語・英語・中国語が定着せず,ポルトガル語がそのまま根づいてしまった。だからパンということば(ルビ・・・)が,ポルトガル船によってもたらされたことは事実である。したがってこのことばの16世紀伝来説は正しいのであるが,これはパンそのものの伝来が16世紀であったことを意味するものではない。それではなぜこんな誤解が横行しているかというと,それは発酵生地を焙焼したものだけが,パンだという誤まった前提にたっているからなのである。しかし聖書にも清浄のシンボルとしての無発酵パンの名が各所にみえるように,西洋人は無発酵パンもパンの一つとして扱っているのである。ところがその西洋人の考え方からすると中国の蒸しパンはパンではないということになる。なぜならば蒸しパンは焙焼パンではないからである。このようにひと口にパンといっても,その意味するところはまちまちなのであるが,西洋人の概念に従ってパンには無発酵パンも含まれるとすると,その歴史はまるで違ったものになる。そこで誤解をただすためにこの点にふれておきたい。
【蒸餅とパンの関係】前記のとおり小麦粉のパンが,オリエントから中国に伝わったのは,西周時代の末期であったが,そのパンは春秋戦国時代をへて漢代に入ると,すっかり中国に定着した。そして中国型のパンが登場してきたのであるが,当時の中国人はこれを蒸餅と称した。そのころ出現した新漢字に“粉”と“餅”の2字があるが,前者すなわち粉は,穀物を分(ルビ・)散したもの,つまり小麦粉のことであり,後者すなわち餅は,分散した粉を併(ルビ・)せたものということである。だから前者には分(ルビ・),後者には并(ルビ・)の字が配してあるのであるが,彼らはこの餅を甑(こしき)で蒸して食べたので蒸餅と称したのである。もちろんこのほかにも西域直伝の胡餅(ルビ・)や,焼餅・湯餅・油餅などもあったが,主流は蒸餅だったのである。問題はこの蒸餅という名のパンが日本に伝来したのはいつのことかという点にあるのであるが,それは前記のとおり弥生時代のことだったのである。小麦が弥生時代に伝来したということは,これにその加工調理法を伴うものであった。わが国の古代のことをしるした諸国の風土記には,この餅に関する説話が出てくるが,これは氏(うじ)の神に供する神聖な神饌食でもあったのである。むろん当時の蒸餅(無発酵パン)は,小麦粉製のパンであった。その小麦粉の蒸餅が,糯米の餅に変わったのは,竪杵にかわる横杵が唐から伝来した中世以降のことにすぎない。このように日本のパンのルーツをたどっていくと,それは約2,000年以前の弥生時代すなわち神代にたどりつくのである。ところがこの小麦粉製の蒸餅はその後あまりひろがらなかった。その最大の原因は,堅い花崗岩製の石臼を刻むことのできる性能をもった鋼鉄の製法が伝わらなかったというところにある。しかし宋代(鎌倉時代)に入るとやっとりっぱな鋼鉄の製法が伝来した。そのために石臼がひろがっていったが,徳川時代に入るとこれが農村の隅々にまでひろがり,焼餅という名の無発酵パンや,唐菓子から出たうどん・そうめんなどの粉食が庶民の食膳にのぼるようになったのである。
【文明開化とパン】幕府が鎖国の祖法を捨てて開国にふみきったのは19世紀の半ばであったが,その跡を継いだ明治政権は,文明開化を合いことばにして,衣食住の洋風化を強力に推進した。パンはその文明開化のシンボルとして位置づけられ,肉・乳・卵を伴う洋風食に欠かせないものとなった。しかし洋風の焙焼パンの代わりに大きく伸びたのは,銀座の木村屋総本店が,1875年(明治8)に開発した日本酒のタネでつくった小豆あん入りのあんパンであった。その日本酒の香りが日本人の嗜好にかなったからで,明治天皇もそのファンであった。食パンが本食としての地位を確立したのは第二次世界大戦後のことにすぎないが,戦後40年たった今は,米飯を復活し,日本型食生活に戻れのムードがたかまってきている。