●藩 はん
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江戸時代に大名の支配する領域およびその支配体系を総称して藩という。しかしその呼称は,幕府が公称として採用したことはなく,1868年(明治1)維新政府が,旧幕府領を府・県と改称し,旧大名領を藩と改称したときから版籍奉還をへて,1871年廃藩置県にいたる明治維新当時に藩が公称として用いられただけであった。【藩の概念】「藩」という漢字は本来「まがき」とか「まもり」という意味を持ち,とくに中国の周王朝にみられた天子の下に諸侯を封した封建制度において,諸侯を「藩輔」「藩鎮」「藩屏」「藩翰」「藩国」などと呼んだことが背景にあって,日本における儒学の発達が,その呼称を日本の制度に転用するようになった。新井白石がその代表で『折焚く柴の記』において,「藩翰譜」を編さんする経緯について述べており,また大名の屋敷を「藩邸」と呼んだりしている。その後,「親藩」「当藩」「藩士」という用い方や,「水藩」「紀藩」「備藩」「長藩」という表現も現れる。「水藩」「紀藩」が早くから用いられるのは,親藩であることから幕府の藩屏としての自覚がこめられていたとみられる。
【藩の種類】基本的には藩主たる大名の分類に対応している。大名は徳川将軍に直属する家臣のうち,1万石以上の身分をいう。(1)将軍に対する親疎の関係による分類。親藩・譜代・外様の3種に分かれる。[1]親藩とは徳川氏の一門たる大名で,家康の3子(義直・頼宣・頼房)を始祖とする尾張・紀伊・水戸の御三家,さらに秀康を始祖とする越前,秀忠の庶子保科正之を始祖とする会津の2家をも含んだ親藩五家は幕末まで永続した。これら5家の子弟で分家して大名となったものは庶流または御家門・連枝などと呼び,いずれも松平を姓とした。[2]譜代大名とはほぼ関ケ原の戦い以前に徳川氏に臣従したものらをさして呼ばれている。彼らは領国をもつとともに幕府の大老・老中・若年寄などに任ぜられて幕政に参与した。[3]外様大名とは,本来徳川家康とともに豊臣氏に仕え,関ケ原の戦い以後に徳川氏に臣従したもので,幕府の要職にはつくことができなかった。このような徳川氏との関係に基づく分類に対して,(2)大名の出身経歴による分類の方法も行われている。それは,[1]旧族大名,つまり中世以来の伝統をもつ大名で,なかでも所領が父祖代々の地である場合が旧族居付大名で,領地が移動したことがあるものを旧族移動大名と呼ぶ。[2]織豊取立大名。戦国期から統一の過程で,織田・豊臣両氏のもとに属して武功を得て大名となり,徳川氏に属したもの(江戸初期に移封された領地に定住した例が多い)。[3]徳川取立大名。徳川氏によって取り立てられた,譜代か親藩の大名でその契機によって,武功取立大名,新規取立大名がある。(3)領地の大小による分類。20万石以上を大藩,5万石以上20万石未満を中藩。五万石未満を小藩とする。(4)藩域による分類。これは社会・経済構造の点から,一円性と定着性をもつ領国藩と藩域が散在し,不安定で小規模な非領国藩とにわける。前者は辺境に多い外様の旧族居付大名の藩であり,後者は畿内地方や江戸周辺などの譜代取立大名に多い藩である。
これらの大名の分類は,藩の社会・経済体制とともにその政治機構にいたるまで藩の特色と深くかかわっている。
【藩の総数】江戸幕府成立の1603年(慶長8)段階で,大名数は185人を数えた。そのなか,譜代大名が68人,外様大名は117人であった。それが,江戸後期,1792年(寛政4)においては,『大成武鑑』にのせられた大名数は,256人(藩)。そのうち,御三家・家門・連枝は12人,譜代大名は144人,外様大名100人となっている。そして,大名領の総石高は,約1,800万石,全国の石高に対して約71.5%を占め,また大名領の約50%を外様大名が占めていた。
【藩権力の確立】藩の成立過程は,1万石から100万石までの差に加え,藩主の出自,歴史的・地理的条件のちがいで多様である。まず旧族外様大名の場合をみると,奥羽・防長・肥前・薩摩など小農自立と兵農分離が未成熟な地域で藩体制の確立をはからねばならない条件にあった。
まず藩権力の集中強化をはかるため,大規模な居城を修築し,全家臣団をその城下に集住させ,「番組」に編成して,勤番体制をしき,また「足軽組」や「鉄砲組」の増強をはかった。しかし,戦国期以来の在地領主制が根強く残っていたところから家臣の多くは地方知行形態をとり,とくに一門・門閥譜代層の領主権が根強く藩権力集中を妨げた。藩主やその信任をえた有力家臣が,権力確立の政策を推進すると,一門や門閥譜代層との対立を深めついには家臣団内部の対立をひきおこし,大村藩の「御一門払い」や南部藩譜代家臣の「墨引追放」事件・秋田藩の門閥譜代衆謀殺事件などが知られている。このような紛争も藩権力確立への一段階であった。さらに幕府の過重な軍役に応えるために知行武士は農民支配を強化した。そこで藩はその対策として,知行の分散・相給・坪高などの方法をとり,負担の公平化をはかり,農民支配の制約のため,給地農民の夫役を定量化し,貨幣納化へと移行した。
また「人別改め」を実施して「役屋」として掌握し,土豪や有力農民は,苗字帯刀・免租などの特権を与え,地方支配と軍事力強化をはかった。さらに蔵入地の拡大のため新田開発と総検地による石高の増加をめざし,年貢増徴と家臣団への加増の実現をはかった。また城下町や鉱山町の整備によって商工業者を集め,領主的需要の対象とし営業への課税をもねらった。旧族外様大名は多く地域的後進性のもとで以上のような藩体制の確立のため強力な権力を必要とし,行政機構の整備は比較的早くから行われた。
織豊取立外様大名の場合は,多くの場合,関ケ原の戦いで改易,削封された跡地に転封させられ,地方支配が難しかった。しかし軍事・内政面に実力を有し,たくみに藩体制確立を進めた。しかし,全国統一過程で形成された家臣団は強力である反面,藩主の代替りなどで内部対立を露呈した越後の堀氏・肥後の加藤氏のごとく,幕府権力の介入で改易された例もあった。
そしてつねに幕府からの脅威と重い軍役にあい,必然的に農民の収奪を強め,抵抗をまねいた。それを防ぐため藩主は代官・給人の農民搾取を禁止し,夫役を定量化し貨幣納化をはかるとともに,在地小領主である地侍・長百姓を大庄屋・庄屋クラスに任じて地方支配機構の末端に組みこみ,同時に小農民の自立を促進して,在地の隷属関係の断絶をはかった。
徳川一門や譜代大名の場合は,外様大名と異なり,元来は徳川氏の家中であったことから,幕府の支持のもとに築城に諸大名の協力や徳川家臣団の分与を受けたりした。その所領も旧徳川領国か,改易・転封された大名の跡地で,予め総検地が実施されるなど好条件におかれていた。したがって,徳川権力と直結する意識が強く,家臣団としての問題は少なく,また藩の成立段階から直接,藩権力と農民が相対する支配関係が生じたことは,特色といえよう。早くから定着した尾張・紀伊・水戸の3藩,越前・会津・彦根など少数の大藩をのぞいては,ほとんどの譜代大名は,いわゆる「鉢植えにされた大名」としてたびたび転封が命ぜられたため,自分の「お国」の観念も生じにくかった。しかし,幕府の重要な職についての勤番や外様大名への警戒の任務は軽いものではなかった。そのため農民支配も厳しく,当然農民の抵抗も少なくない。
【藩政の変化】幕藩体制の基本的矛盾がしだいに顕在化してくるとともに幕藩関係にも変化が生じ,幕府の藩への規制が弛みだすとしだいに藩の自立性つまり藩=「国」意識が芽生え,藩益=「国益」の追求がはじまる。
江戸中期以降の藩政改革はそれに対応して試みられ,幕藩のあいだでの経済的・政治的対立関係は徐々に強まるが,しかし,幕藩関係の否定にいたるものではなく,あくまで体制内の対立であった。しかし幕末,天保期にみられる西南雄藩の藩政改革は,封建反動の性格を中心としつつ,「富国強兵」の方向で成功をおさめ,国内の新しい政治勢力として台頭してくるのである。
〔参考文献〕金井圓『藩政』1962,至文堂
藤野保『幕藩体制史の研究』1961,吉川弘文館
北島正元『日本史概説 II』1968,岩波書店
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