●パレスチナ問題 パレスチナもんだい
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現代における最も解決困難な国際問題の一つで,古代に端を発したアラブ人とユダヤ人の土地をめぐる確執という問題ではない。これはパレスチナに故郷をもつパレスチナ人が権利として有する民族自決権の行使をめぐるもので,シオニズム運動とのかかわりのなかで派生した極めて今日的問題である。【シオニズムとユダヤ移民】パレスチナの地には,アラブ時代・十字軍時代・トルコ時代を通じて少数ながらユダヤ人は居住していた。彼らは多数を占めるアラブ人と取り立てて確執を生むことなく,平和のうちに共存していたと言ってよい。この点に関しては19世紀前半も変わることはなかった。一方,ヨーロッパではユダヤ人に対する迫害や差別が,啓蒙時代以来の人間の解放を推し進める雰囲気のなかでもなお決して衰えることがなかった。ユダヤ人が伝統的な殻を自ら打破し近代ヨーロッパ文化を受容しつつ自己変革しても,ユダヤ人を取り巻く状況の改善は見通せないことを確信するに及んで,ついに彼らは自分たちの郷土を建設することに解決を求めるようになった。ここに,シオン(イェルサレムの雅名)に祖国を再建しようというシオニズム運動が誕生する。1882〜1903年に2,3万人のユダヤ人が初めて組織的に入植し,最初のコロニーを建設していった。次いで1903〜1914年には3万5,000〜4万人が入植している。この時期の入植者からはベン=グリオンをはじめ,後のイスラエル国家の政治的・社会的指導者が多数輩出している。彼らはヨーロッパにおけるそれまでの生活形態とは異なって農業を中心とした労働をもって新しい天地を開発しようと努力した。集団農場(キブツ)が生まれたのも,また後のイスラエル労働党(マパイ党)の前身ポアレ=ツィオン党が創設(1906)されたのも,この時期の入植者の活躍によるものであった。
【第一次世界大戦下のイギリス外交】1917年11月,イギリス外相バルフォアは書簡の形式でバルフォア宣言を公にした。そのなかで〈イギリス政府はユダヤ人のためにパレスチナに民族郷土(national home)を建設することを好意的に考えており,この目的を達成すべく最善の努力を払う所存である〉と表明したが,これは1897年の第一回シオニスト会議で採択された「バーゼル綱領」の理念を実質的に追認するものとなった。イギリスとしては,インドへの中間にある地域的重要性・対独戦遂行のため米国の協力を得る必要性・ユダヤ人に対する人道的配慮などの理由に基づくものであった。しかし同じイギリスのカイロ駐在高等弁務官マクマホンは,メッカの大守フセインに対しトルコとの戦いに勝利した暁にはアラブの独立国をつくると約束していた。対トルコ戦にアラブの協力を得るためであった。第一次世界大戦という状況のもとでの外交工作とはいえ,矛盾するとも言えるイギリスのとった一連の行動が今日のパレスチナ問題に影を落としていることは否定し得ない。戦後イギリスはほぼ期待どおりパレスチナを委任統治領として手中に収める(1920)。まもなく,そのうちのヨルダン川東岸はイギリスの委任統治下にあってハシミテ家のアブドゥラーが支配するアラブ人の自治領となり,西岸はイギリスの直接統治となった。パレスチナへのユダヤ人移民はヨーロッパの情勢を敏感に反映する。ナチスのユダヤ人迫害が深刻化するにつれて入植者数は激増し,1930年代はその頂点に達した。1931〜1935年には14万7,500人にのぼり,委任統治下の社会的・経済的バランスを根底から覆しかねない脅威をパレスチナ・アラブ人に与えた。1936年のゼネストから暴動にまで発展したパレスチナ人の反発は,このような状況を反映したものに他ならない。この暴動を力で鎮圧したイギリスは,アラブ人への宥和政策としてユダヤ人の入植者数と土地の購入を厳しく制限した。時あたかもヨーロッパのユダヤ人にとってただならぬ時期であり,多数のユダヤ人が入植先を求めていたこともあり,イギリスの態度に対し反英感情を募らせていく。
【国連とパレスチナ分割案】第二次世界大戦後イギリスはパレスチナから撤退の方針を決め,その処理を国連にゆだねた。1947年2月国連パレスチナ特別委員会が設置され,同年11月の総会において「パレスチナ分割案」が賛成33(アメリカ・ソ連・フランスなど)・反対13(アラブ諸国など)・棄権10(イギリスを含む)で可決された。これはパレスチナをユダヤ人国家・アラブ人国家・国連管理地区(イェルサレムとベツレヘム)に分割するものであった。ユダヤ人の民族国家建設につながるこの案をユダヤ人は歓迎したが,パレスチナ・アラブ人とアラブ諸国はこれに激しく反発したのは言うまでもない。イギリスの委任統治終了と同時にユダヤ人はイスラエル国の独立を宣言(1948年5月),周辺アラブ諸国はただちにパレスチナに侵攻して第一次中東戦争が始まった。半年後に戦闘が終息した時点では,国連の分割案より40%も上回る地域をイスラエルは占めていた。同時に多数のパレスチナ・アラブ人が難民として近隣アラブ諸国に逃れた。その後イスラエルとアラブ諸国との間には数次にわたる中東戦争が繰り返されたが,1967年の第三次中東戦争では,ヨルダン川西岸・ガザ地区・ゴラン高原・東イェルサレムを占領し,その地にユダヤ人入植を進めるとともにイスラエル化を促進させている。その後東イェルサレムをイスラエルの主権下に併合し,国際的批判を浴びた。度重なる戦争の結果,パレスチナ人はレバノン・シリア・ヨルダン・クウェートなど近隣のアラブ諸国に約180万人,西岸・ガザ地区などの占領地に120万人,イスラエルの国内に約50万人散在し,あわせて約350万人程度と言われる。占領地のパレスチナ人はさまざまな制約や圧迫を受け,彼らの反イスラエル感情はつねに治安の不安定の要因となっている。アラブ諸国に逃れたパレスチナ人はヨルダンや湾岸諸国で定職を得ている者もあるが,今なお難民キャンプに居住している人々は60万人を超える。
第一次中東戦争直後から難民や学生を中心に反イスラエル抵抗運動は活動を始めたが,1964年カイロで開かれたアラブ首脳会議において,パレスチナ人の多様な抵抗運動を統一する組織としてパレスチナ解放機構(PLO)を結成することが決議された。1969年にはファタハのヤセル=アラファトが PLO の議長に就任,自らの手でパレスチナ解放を勝ち取るため各地で武力闘争を展開,1974年の国連総会ではパレスチナ問題討議への参加が認められアラファト議長が出席して演説した。この総会は,パレスチナ人が権利として自決権を有すること,パレスチナ問題の当事者であることを明確にした点で画期的であった。PLO は,イスラエル国がパレスチナ人の意思に反しかつその犠牲の上に建国されたとしてその存在を容認しない。目標として全パレスチナを対象とした,人種的・宗教的差別のない民主国家を掲げている。したがって第三次中東戦争後採択された安保理決議242号は,占領地域からのイスラエルの撤退・交戦状態の終結を求めつつも,すべての国の主権・独立・領土保全の尊重などの内容がパレスチナ全土の解放という目的と相容れないとしてこれを拒否している。
パレスチナ問題は,イスラエルの建国に伴って失うことになったパレスチナ人の権利回復をめぐる問題であって,単なる難民救済の問題ではない。しかし現時点でイスラエル国の存在を否定することはあまりに非現実的対応であり,国家としてのイスラエルの存在を前提とした上で,パレスチナ人の民族としての固有の権利を実現するように努力する以外に解決はないであろう。西岸とガザ地区から成るミニ=パレスチナ独立構想をも含めて,PLO 内部にもさまざまな考え方があり,必ずしも強硬路線で統一されているわけではない。いずれにしろ自決権行使の態様はパレスチナ人自ら選択すべき問題であると言える。
〔参考文献〕鶴木真『パレスティナ問題入門』1982,TBSブリタニカ
村田良平『中東という世界』1981,世界の動き社
小林正之『ユダヤ人−−その歴史像を求めて』1977,成甲書房