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●バルカン問題 バルカンもんだい

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 バルカン半島を支配していたオスマン=トルコ帝国が衰退し,その支配下にあった諸民族が19世紀に入って独立闘争を開始したが,ヨーロッパ諸列強がそれに介入して相互間の鋭い対立と抗争を展開した。それがヨーロッパ外交史上最も複雑な“バルカン問題”であり,ヨーロッパの“東方”の問題であるため「東方問題」Eastern Question とも呼ばれる。

【バルカン諸民族の独立】14世紀にバルカン半島に進出したオスマン=トルコは,ブルガリア・セルビア・ギリシア・アルバニア・モルダヴィア・ワラキア等を征服したが,17世紀以降衰退が目立つようになり,1699年のカルロヴィッツ条約によりオーストリアにバルカン北部を譲り,1774年のクチュク=カイナルジ条約によりロシアに対してトルコ領内への干渉権を認めた。ロシア・オーストリアのバルカン進出に対して,イギリス・フランス等が反発しバルカン情勢は急速に脚光を浴びるに至った。列強の進出に呼応して高揚したバルカン諸民族の民族意識は,フランス革命とナポレオン戦争を契機として燃え上がった。1804年にセルビア人が独立革命を起こし,1821年にはギリシア人が独立戦争を起こし,ロシア=トルコ戦争やイギリス・フランスの介入の結果,前者は自治を後者は独立を獲得した。しかし,独立ギリシアに対する支配権等いくつかの問題をめぐってイギリス・フランス・ロシアは激しく争い合いクリミア戦争に至る。すなわち,1853年のロシア=トルコ戦争でトルコ艦隊が全滅,ロシアのバルカン支配が不可避と見たイギリス・フランスがロシアに宣戦し,セヴァストポリの戦いを経てロシアが敗北,そのバルカンにおける影響力が削がれた。1875年にボスニア・ヘルツェゴヴィナでの蜂起をきっかけにバルカン諸民族はトルコに反抗し,それに誘発されたロシア=トルコ戦争におけるトルコの敗戦の結果,1878年3月にサン=ステファノ条約が結ばれた。この条約はセルビア・モンテネグロ・ルーマニアを独立させたが,同時にバルカン南部にロシアの影響下に広大なブルガリア公国を創設することを規定したため他の列強が強く反発し,ベルリンで開かれた国際会議の後結ばれた条約ではブルガリア領は三分されることとなった。

ベルリン条約後のバルカン問題】独立を達成したバルカン諸国は,領土の帰属をめぐって争い,それに諸列強の対立がからんでバルカンは“ヨーロッパの火薬庫”と呼ばれるようになる。1890年代から“世界政策”に乗り出し,「3B政策」に着手したドイツは,日露戦争敗北後目を極東からバルカンに転じたロシアと激しく対立した。ドイツに励まされたオーストリア・ハンガリーは,1908年にボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合しセルビア人の反感をかった。トルコ帝国が動揺したのを見たバルカン諸国は,1912〜1913年に第1次バルカン戦争を仕掛けてトルコ領をバルカンからほぼ一掃したが,マケドニアを領有できなかったブルガリアは,1913年に他のバルカン諸国に第二次バルカン戦争を挑んで敗北しその後ドイツ側に接近した。1914年6月,ボスニアのサラエヴォでセルビア人青年がオーストリア・ハンガリー皇太子夫妻を暗殺,諸列強はそれを契機に第一次世界大戦に突入した。第一次世界大戦後“民族自決”が唱道され,東欧にはユーゴスラヴィアなどの新興国家が誕生し,ルーマニアは領土を倍増したがいずれも戦勝国側に有利な領土設定がなされ,敗戦国ハンガリー・ブルガリアはドイツやイタリアとともに現状打破勢力を形成するに至る。バルカンでは,ブルガリアを拠点とするマケドニア=テロ組織 IMRO の活動,ユーゴスラヴィア内のセルビア人のヘゲモニーに対するクロアチア人の反発,ルーマニア内の少数民族の不満などで,外部からの働きかけもからみ険悪な情勢を生み出した。第二次世界大戦後バルカン諸国の多くは東側のブロックに属し,民族対立は一時沈静化したかに見えたが,1970年代以後,マケドニア問題・クロアチアでの学生スト・コソヴォアルバニア人問題・ルーマニア内のハンガリー人問題など,紛争再燃の傾向が表面化している。