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●バルカン

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 ヨーロッパ大陸の南東部の半島で,西はアドリア海,東は黒海・エーゲ海に面する。本来トルコ語で山地を意味する。現在,この半島にはギリシア・アルバニア・ブルガリア・ルーマニア・ユーゴスラヴィア諸国があり,東南部から小アジアにかけてトルコがある。

【複雑な歴史】古代にはその南部にギリシア文明が栄え,ヨーロッパ文明発祥の地となった。半島全体は1世紀にローマ帝国により初めて統一されたが,3世紀の同帝国衰退とともに北からはゴート人が侵入し,ついで4世紀末以来フン人が侵入した。6世紀ころからスラヴ人が南下し始め7世紀末までには半島全域に侵透した。セルビア人・クロアティア人・スロヴェニア人・ブルガリア人がそれぞれ独自の国を建て,東ローマ帝国のギリシア正教文化の影響を受けあるいはそれに服属した。ルーマニア地方の住民はスラヴの影響を受けながら長くラテン的特質を維持した。9世紀末にはマジャール人がドナウ川北辺の地に進出し,12世紀以降半島北部を支配した。14世紀中ごろ以降小アジアに興ったイスラーム教徒のオスマン=トルコがこの半島に進出し,1389年のコソヴォの戦いで南スラヴ連合軍を破り,1396年にはニコポリにポーランド-ハンガリー軍を撃破,1453年には東ローマ帝国を滅ぼしバルカン支配を確立した。1526年トルコはモハーチの戦いでハンガリーを征服しバルカン支配を拡大したが,17世紀に入りその国力が停滞し始め,1683年のウィーン攻撃失敗後は西のオーストリア,北のロシア勢力が台頭する。このようにバルカンはその民族・宗教・言語的に複雑な歴史を展開してきた。

【バルカン諸国の独立】1699年のカルロヴィッツ和約では,トルコはハンガリーとトランシルヴァニアを,1718年のバッサロヴィッツ和約ではボスニア・セルビアの北部・ワラキア西部をオーストリアに譲り,ロシアもピョートル大帝時代以後しだいにバルカンへの発言権を増大させ,18世紀はトルコのバルカン支配の後退期となった。19世紀に入ると,民族自由主義の風潮の中にバルカン諸民族のトルコからの独立運動が起こりトルコは解体期に入る。1821年まずギリシアが独立運動を起こし,1829年アドリアノープル条約でそれは承認された。このときセルビアとモンテネグロ(後のユーゴスラヴィア),モルダヴィアとワラキア(後のルーマニア)も自治権を与えられた。バルカンのギリシア正教徒・スラヴ系民族に対するロシアの支援策は,クリミア戦争の敗北で一時頓挫するが,1867年にはモスクワにスラヴ代表会議を開きその盟主となる。1875年ヘルツェゴヴィナに,1876年ブルガリアに対トルコ反乱が起こって,セルビア・モンテネグロもこれに加わると,1877〜1878年の露土戦争を起こしてバルカン諸国を独立させ,大ブルガリア国を建設してこれを保護下におくサン=ステファノ条約をトルコに強制した。

ヨーロッパの火薬庫】バルカンにおけるロシアの決定的勝利に,イギリス・オーストリアは強く反対し,ドイツの仲介で1878年6月ベルリン会議が開かれた結果,セルビア・モンテネグロ・ルーマニアの独立が認められたが,ブルガリアは領土を縮小され自治権を与えられたにとどまり,オーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナの統治権を得,パン=スラヴ主義は大きな掣肘を受けた。19世紀末以来,ドイツは3B政策を推進しバルカン進出を活発化して,1908年オーストリアにボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合させたことからセルビアはロシアに接近した。同年トルコから独立したブルガリアもロシアの支援を得て1912年第一次バルカン戦争を起こした。アルバニアも1913年イタリア・オーストリアの支援で独立したが前後して第二次バルカン戦争がおこるなど,そこにおける民族主義と列強の利害対立は複雑で,バルカンはヨーロッパの火薬庫と呼ばれた。

〔参考文献〕梅田良忠編『東欧史』世界各国史,13,1955,山川出版社