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●パリ大学 パリだいがく

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 フランス教育行政区の一つであるパリ大学区にあった総合大学。

中世パリ大学の起源】その起源は,ボローニャ大学などと同様に自然発生的な大学であり,その正確な年や発展は必ずしも明確ではないがおおよそ12〜13世紀とされている。11世紀にはパリのノートル=ダム寺院の境内に司教座聖堂参事会員を教師とするいくつかの学校が開かれていた。教師はパリ司教の管轄下にあり,その「教授免許」を必要とした。これらの学校は,12世紀初頭にアベラールが来て飛躍的に発展し,セーヌ川左岸にも伸展して,今日カルティエ=ラタン(ラテン語地区)と呼ばれている地区に及んだ。その後,学校と学生との団体的組織としての「大学」(ウニヴェルシタス)が生まれたが,これは1200年から1210年までの間と考えられている。このころに,「教授免許」をめぐり司教などとの激しい争いが起こるが,1215年にローマ法王は大学に一定の枠内での自治権を認めた。この自治権によって内部の組織化が行われ,近接した学科の集合体としての「学部」(ファキュルテ),すなわち神学・学芸(文学・理学)・法学,および医学の各学部が形成されるに至った。

【ナポレオンの帝国大学とその後】革命期に,大学は新しい社会の要請に応えることが主張されたが実現されず,大学は廃止されることになる。革命の収束後,ナポレオン1世は教育は国家の職務であるとして,教育の再編を行った。大学については,1806年の法律および1808年の勅令によってフランスに一つの「帝国大学」が設置された。ナポレオン学制は中央集権制であり,学部がもっていた学位の授与権などの特権は奪われ,その授与権は国家の独占となり,学部(神学・法学・医学・理学・文学の5学部)はそれぞれの連携をもたない独立した存在となった。第三共和政になって,1893年の法律は学部の連合体を構成し,それに対して法人格と財政上の自治権を付与した。さらに,1896年の法律はこれらの連合体に「大学」の名称を与えた。そして1920年の法律によって,パリ大学をはじめとするフランスの大学の組織が一応完成したのである。

【1968年以後のパリ大学】1968年5月の大学紛争後,同年11月に高等教育基本法が制定され,これに基づいてパリ大学は13の独立した大学に改編されこれとともにパリ大学は消滅した。また大学の学部制は廃止され,それに代わって「教育・研究単位機関」(U. E. R. )が生まれた。13の大学はパリ地区の三つの大学区にまたがっており,その通称と主要な U. E. R. をあげると次のようになる。

 パリ第一大学(パンテオン;法・歴・哲),第二(パリ法経;法・経・政),第三(新ソルボンヌ;文・東洋語),第四(ソルボンヌ;文・語学),第五(ルネ=デカルト;医・歯・薬・心・教),第六(ピエール=マリ=キュリー;理・医),第七(ジュシュー;歴・理・医),第九(ドフィーヌ;経・管理),以上パリ大学区,第十(ナンテール;歴・地・文・心・教),第十一(パリ南:オルセー;理・医・法),以上ヴェルサイユ大学区,第八(ヴァンセンヌ=サン=ドニ;語学・経・哲・心・教),第十二(ヴァル=ド=マルヌ;医・法・経),および第十三(パリ北:ヴィルタヌーズ;法・経・文・医),以上クレテイユ大学区。

 フランスは現在27の大学区に分けられ,大学は1983年現在71校であるが,パリ地区の13の大学はフランスの全登録学生数約93万人(延べ数)の約30%を占めている。

高等教育基本法の改正】1984年に高等教育法(1月26日付)が制定された。これは1968年法の精神を推し進めると同時に,大学の使命として,研究の振興・雇用政策(職業化),社会的・文化的不平等の緩和を強調している。また,これまで大学とは別の体系をなし,大学よりも高い威信を有してきた高等専門大学(グランド=ゼコール)などをこの法律の適用対象に含めている。

〔参考文献〕A. レオン,池端次郎訳『フランス教育史』1969,白水社

J. ヴェルジェ,大高順雄訳『中世の大学』1979,みすず書房