●パリ条約 パリじょうやく
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パリで締結された諸条約。パリはロンドンなどと並んで,国際会議が開かれたり国際条約が結ばれる場となることが多い。これは,パリが西ヨーロッパの中心に位置し古くから国際的な大都市であり,宮殿などが多くあって便宜なことのほか,フランスがヨーロッパの中心となる大国の一つであり,ルイ14世以後フランス語が外交語として定着していたことにもよる。中世においても,ルイ6世時代の1129年やルイ9世時代の1259年にパリ条約と呼ばれるものが結ばれている。後者はイギリス王ヘンリ3世との間の紛争を解決したものとして重要である。近代になってからの主なパリ条約について以下に述べる。(1)(1763年2月10日)イギリスとフランス・スペイン両国の間に結ばれたもの。1756〜1763年に七年戦争があったが,この戦争に並行して,フランスとイギリスは北アメリカ・インドおよび海上において,植民地と貿易の支配をめぐって争った。北アメリカではフレンチ−インディアン戦争が,インドでは第三回カルナータ戦争がその主なもので,これらの戦争の結果イギリスが優位に立った。プロイセンとオーストリア間の七年戦争がフベルトゥスベルク条約で終結するより前に,イギリスとフランス・スペインは1762年11月,フォンテーヌブロー仮条約を結び,翌年正式にパリ条約が結ばれた。
その内容は,フランスがイギリスにカナダ・ケープ=ブレトン諸島・ミシシッピ以東のルイジアナ・西インドのグレナダ・サン=ヴァンサン・ドミニカ・トバゴ諸島・地中海のミノルカ島を割譲し,フランスはニューファウンドランド・セント=ローレンス湾の漁業権を認められ,その基地として非武装のミクロン・サン=ピエール両島を得,西インドではガドループ・マルティニックなどの島が返還され,インドでは非武装のシャンデルナゴル・ポンデシェリを除いてすべて放棄し,アフリカではゴレーが返還された。またヨーロッパではプロイセン・ハノーヴァー・ヘッセンなどの占領地から撤退した。
スペインとイギリス関係では,スペインはイギリスにフロリダを譲り,フランスからミシシッピ以西のルイジアナを得,イギリスが占領していたハバナを含むキューバが返還された。
この条約でフランス・スペインが後退し,植民帝国としてのイギリスの地位が前進したが,アメリカ植民地では自治意識が高まり独立戦争が接近してくることになる。
(2)(1783年9月3日)アメリカの独立を承認し,独立戦争に伴う国家間の諸問題を整理した。
イギリスとフランスを主軸にした第二次百年戦争と呼ばれる争いは,植民地や海洋支配を含めたグローバルな規模になり,スペインやオランダといった植民地先進国も加わって展開された。アメリカ独立運動もこの枠のなかに組みこまれ,第二次百年戦争でしだいに優位に立ってきていたイギリスに対しては,ヨーロッパのバランス=オブ=パワーの原理が働き,反イギリス気運が高まっていった。武装中立同盟もその一つであるが,フランス・スペイン・オランダは,直接イギリスを敵とし,アメリカ側に与してその独立を支持した。このため,アメリカ独立が達成された後の講和条約はイギリスと各国間に個別的に結ばれ,1783年9月の条約はそれら条約を前提としそれを集約したものと言える。すなわち,1782年11月30日にパリ仮条約がまず結ばれ,イギリスはアメリカ13州の独立を承認し,トバコとセネガルをフランスに譲り,スペインはミノルカ島とフロリダを得(ヴェルサイユ平和条約),オランダはモルッカ海峡の自由航行権をイギリスに対して認めるなどのことが確認された。これをもとにして,1773年1月にはイギリスとフランス・スペインの間に,9月3日にはイギリスとアメリカ間の確定条約が成立してアメリカの独立が承認され,さらにイギリスとオランダの間の条約が9月に結ばれた。その内容は仮条約と大きな変化はなく,アメリカのニューファウンドランドにおける漁業権とミシシッピ川の航行自由権が認められた。
(3)(1810年)スウェーデンとフランスの間に結ばれた条約。1809年,ロシアと戦って敗れたスウェーデンは,ティルジット条約でフィンランドをロシアに割譲した。これが原因でスウェーデンにクーデタが起こってグスタフ4世が退位し,甥のカール13世が即位したが実権はナポレオンが派遣したベルナドッテが握っていた。この情勢のなかで憲法が発布され,ロシアとフレドリクシャム条約を結び,フィンランド・トルネア川流域・アーランドの放棄を定め,次いでフランスとパリ条約を結んだ。その内容は,スウェーデンの新憲法体制が認められポンメルンの一部の領有が確認されたものである。バルト海において,ロシアの圧力に悩みつつ,ナポレオン体制下に吸収されるスウェーデンを示している。
(4)(1814年5月30日)ナポレオンが敗退した後,列国がフランスのルイ18世との間に結んだもの。対ナポレオン戦争に勝利を得た対仏同盟諸国はフランスに対する警戒をゆるめず,1814年5月9日にショーモン条約をイギリス外相キャッスルリーの尽力でまとめ,革命の再発と各国間で個別に平和条約を結ぶことを禁じた。ナポレオンをエルバ島に流した後,ショーモン条約に基づき列国とフランス王国の間にパリ条約が結ばれた。エルバ島を脱出したナポレオンの百日天下の後,再びパリ条約が結ばれるのでこれを第一次パリ条約と呼ぶ。その内容は,フランス国境を1792年1月当時のものとし,1789年にフランス領であったアヴィニョン・サヴォイ・ザール・ベルギーの一部はフランス領として認め,プロイセンはラインの一部を得,ドイツ諸邦は独立を回復してドイツ連邦を組織する。イギリスはフランスからトバゴ島・サン=ルシア島・フランス島を得,オランダからケープ植民地と騎士団領となっていたマルタ島を得た。イタリア諸邦とスイスの独立をフランスが承認するなどで,未解決の問題については2カ月以内にウィーン会議を開催して解決することを定めた。
第一次パリ条約の特色は,ナポレオンに占領されたヨーロッパをもとの状態にもどすことに主眼が置かれ,復活したフランス王国に対する制裁が軽く領土の割譲や賠償金が課せられていない点にある。イギリスは第二次百年戦争におけるフランスの最後のエースとも言えるナポレオンを破り,覇権国家の地位を固めた。(5)(1815年11月20日)ウィーン会議中に,エルバ島を脱出したナポレオンをワーテルローの戦いに破った後,対仏同盟諸国とフランスの間に結ばれた条約。第二次パリ条約と呼ばれる。その内容は,フランス国境を1789年7月当時のものとする。これによって,フランスはオランダにマリエンブルク・フィリップヴィルを,プロイセンにザールルイ・ザールブリュッケンを譲り,サヴォイをサルディニアへ,ローター川流域をバイエルンに渡すことになった。またフランスは北部および東部国境にある17の要塞を廃棄し,15万人のフランス占領軍の費用を受けもち,7億フランの賠償金を支払うことなどが定められた。
第二次パリ条約は,賠償金を課している点,領土を縮小させていることなどから見て,ナポレオンの再興を許したフランスに対して第一次パリ条約に比べれば制裁的な内容が強まっているが,ウィーン会議の精神を受けて,フランスをヨーロッパの勢力均衡の重要な国家とみなしていることを示している。
(6)(1856年3月30日)クリミア戦争を終わらせた講和条約。1853年ロシアがトルコ内のギリシア正教徒保護を理由にして,トルコに対して開戦したクリミア戦争は,1854年3月同盟を結んだイギリスとフランスが3月28日にロシアに宣戦したのを初め,サルディニアも1855年1月26日に参戦したし,プロイセンやイギリス・フランスと攻守同盟を結んだオーストリアもロシアに最後通告を発するなどした。こうして敗北したロシアは後進性を暴露した。1856年2月25日から30日までパリ会議がもたれた。その議長はフランス外相ワレウスキで,イギリスからはクラレンドンおよびコーレイ,オーストリアからはブオールとヒューブナー,トルコからはアリ=パシャとムハンマド=ジェミル,サルディニアからはカヴールが,そしてロシアからはオルロウとブルンノウが代表であった。
この会議は,ロシアのトルコ侵略に対するトルコの保全を貫こうとするイギリスの主張を主軸とし,ナポレオン3世はウィーン会議や第二次パリ条約で定められたフランスの立場の改善を考え,イタリアやポーランド問題に関心をもった。オーストリアはロシアの進出を警戒し,サルディニアはイタリア統一の場合の列国の支持を期待していた。
条約内容は,列強はそれぞれ占領地から退去して旧に復し捕虜を返すこと,トルコをヨーロッパ協調の一員としてその独立と領土保全を保障し締約国のトルコへの内政干渉はやめる。トルコは宗教や人種による差別を中止する。ロシアはドナウ川口とベッサラビアをモルダヴィアに譲り,ナポレオン3世が望んだように,ワラキアとモルダヴィアはトルコ領とされながら自治権をもちそれを列国が保障する。ドナウ川に関しては自由航行の原則が確認され,黒海とボスフォラス・ダーダネルス両海峡の中立が約された。それらに関しては,国際委員会が設立され軍艦の通航や戦時物資の輸送は禁止された。
1856年4月15日,イギリス-フランス-オーストリア条約が結ばれ,トルコの独立と領土保全を約し海上捕獲についての「パリ宣言」が発せられた。これら一連の外交成果は,近東問題におけるイギリスの勝利を意味しロシアは後退した。
(7)(1898年12月10日)米西戦争を終結させた条約。スペイン統治に対する原住民の反乱がキューバで起こり,スペイン軍がアメリカ権益を侵したこと,2月15日にアメリカ艦船メイン号がハバナ湾で沈められたことから4月25日におこった米西戦争は,短期間のうちにアメリカの一方的勝利に終わり,8月に仮条約が結ばれた後12月の本条約となった。条約内容は,スペインはキューバの独立を承認し,プエルトリコ・グアム島・西インドのいくつかの島をアメリカに割譲する。また,フィリピン群島を2,000万ドルでアメリカに譲渡することを定めてある。
スペインはこの結果,カリブ海や太平洋から後退しアメリカの勢力がこれらの地域で伸張した。なお,キューバは1901年,プラット修正条項によってアメリカの保護領となった。グァンタナモも米西戦争でスペインからの独立を宣言したが,実際上はアメリカの保護国となりアメリカの軍事基地ができた。
(8)(1947年2月10日)第二次世界大戦後,連合国21国と枢軸国であったイタリア・ルーマニア・ブルガリア・ユーゴスラヴィア・フィンランドとの間に成立した講和条約。イタリアは海外の全植民地を失い,トリエステを自由港とし,フランスなどに領土の一部を割譲するほか,3億6,000万ドルの賠償金を定め軍備の制限を受けた。ルーマニアは7,000万ドルの賠償金と軍備制限を受けた。ハンガリーはチェコスロヴァキアなどに領土の一部を譲り3億ドルの賠償金と軍備制限を受けた。フィンランドはソ連に領土の一部を譲り軍備の制限を受け,ソ連に3億ドルの賠償金を支払うことなどが決められた。