●パリ・コミューン
ヨーロッパ フランス共和国 AD1870 フランス共和国第三共和政
1870年9月から1871年5月までのパリ自治政府。これとは別に,1789年7月から1795年9月まで存続したフランス革命期のパリ=コミューンがあり,絶対王政末の行政組織からブルジョワ自由主義による市・48区自治組織への転換(1789〜1790),パリ県・市当局による区自治の制限(1791),外国軍と宮廷の威圧に対する防衛反応としての民主共和革命(1792年8月10日)を経て,直接民主主義的なサン=キュロット運動の発揚(1793)という諸局面を経験する。その後,エベール派による主導権の掌握,ロベスピエール独裁で市自治の抑制を見,1795年憲法で区制自体が廃止された。1870年の自治政府も二〜三世代前に相当する大革命期のイメージに鼓舞された面もあるが,それ以上に19世紀後期に固有の社会的経済背景をもち,はるかに峻烈な中央国防政府との対立をはらんでいた。同年9月,セダンでナポレオン3世が降状するとティエールの率いる国防仮政府が成立。パリ民衆はインターナショナル=パリ支部の主導下に20区共和主義中央委員会を認め,志願制による三十余万の国民衛兵隊をつくった。民衆はティエールの休戦交渉に不満で10月31日市庁を占拠。この時はベルヴィル地区の労働者大隊を率いるフルーランスとブランキの論争や革命権力の構想がないため消散した。その間,マルセイユ・リヨンで南仏連盟が形成された。11月4日,国防政府は信任投票をうけ,区長・助役選挙で政府支持派が上まわったことから革命諸派への追及が始まった。国民議会選挙も王党諸派・帝政派が過半数を超え,ボルドーに召集(3月10日ヴェルサイユに移転)されたこととプロイセン軍のパリ入城とに対応して国民衛兵隊連合が結成され,20区代表団やインター派の一部を加え戦闘化した。ティエールによる3月18日のモンマルトルの大砲奪取の失敗で敵対関係は公然となり,ヴァルランなどの国民衛兵中央委員会はパリの支配を確立。コミューン選挙が実施され90名から成る評議会とその下で執行にあたる10委員会が組織された。しかし国家権力にとって代わる政府なのか,暫定的な自治政府かという問題をめぐって国民衛兵中央委員会は結論を見ず,唯一の合法政府を宣したコミューン評議会でも,民衆の基盤を重視するルフランセらインターナショナル,プルードン派と,集権化を要求するブランキ派やドレクリューズなどジャコバン派との対立が激化。4月3日,やや遅きに失したヴェルサイユ進撃は敗退,第二次パリ籠城が始まる。この間,コミューン諸委員会は,家賃支払いの免除,経営者の放棄した工場の接収と労働者協同組合による管理,教育の世俗化,裁判官の選挙制などを施行。フランス革命にならって革命暦の採用や非キリスト教化運動までも行った。しかるにフランス銀行の管理はあえて断行せず,ヴェルサイユ政府への手形割引を許した。コミューン側の劣勢は,国民軍中央委員会と評議会との軋轢によって促され,とくに人質法の制定や反コミューン新聞の発行停止の処理を通して評議会多数派の革命独裁が前面に出る。さらに5月1日,公安委員会の成立を見るが,陸軍省代表ロセルの軍事陰謀も内部危機の表現。5月21日から市街戦となり,28日ベルヴィルでの決戦でマクマオン指揮のヴェルサイユ軍に鎮圧される。戦闘によるコミューン側死者2万人(女・子供も入れると3万),その後3万8千人が逮捕・裁判され370名に死刑宣告(別説では270名に宣告,執行は26名のみ),410名に強制労働,7,500人が禁錮または流刑(別説・7,500人の流刑,3,400人の禁錮,322人のパリ追放,117人の警察監視,56人児童の鑑別所送り)となった。コミューンの構成は,評議会には学者・ジャーナリスト・弁護士・文士・芸術家・学校教師などの小市民的知識人が多数を占め,国民衛兵中央委員会には知識人もいたが手工業主や小商店主が多かった。他方,19区・20区にまたがるベルヴィル地区には鉄道業の普及の結果,金属工や機械工など近代工場の労働者が居住し,職人層の優勢な他区と対比される。各区には民衆のクラブがつくられたが,それとともに婦人の活動も際立ち,婦人作業場のみならず,婦人戦士や従軍看護婦の募集・職業斡旋にあたる婦人同盟の活動が人目をひいた。