●パリ講和会議 パリこうわかいぎ
AD1919
1919年1月18日〜1920年8月10日に開かれた第一次世界大戦の平和会議。【準備】1918年11月9日,ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位を宣言しドイツ共和国が誕生した。11日には戦闘が中止され,25日にはフランス軍がストラスブールへ進駐,イギリス・アメリカ軍は12月1日ドイツ占領を開始した。この間にも講和会議の準備が進められた。場所に関しては,アメリカは公正という見地からジュネーブを推しイギリスはブリュッセルを提案したが,フランスの主張が通ってパリに決まった。中立国の参加も議せられたが見送られた。召集されたのは,イギリスの四自治領とインドを含めて32カ国で70人の代表が参加した。ポーランド・チェコスロヴァキア・セルブ=クロアート=スロヴェーヌ王国のように,大戦中に存在しなかった国も戦勝国として招かれ,敗戦国であるドイツ・オーストリア・ハンガリー・ブルガリア・トルコは除外された。「勝利なき平和」を呼びかけたウィルソンの「14カ条」に応じて無条件降伏したドイツの期待はまず裏切られた。
【運営】最初の会合で強国によって構成される分会が設置された。イギリス・アメリカ・フランス・イタリアの四国で,日本が追加され,これらの国で評議会をつくりこれが事実上の決定権をもった。総会は決定されているものを批准するのみであった。日本は利害関係が少ないことから,1919年3月末に,評議会は四名評議会となり,ウィルソン(米)・ロイド=ジョージ(英)・クレマンソー(仏)・オルランド(伊)がこれに当たった。これを四巨頭と呼ぶが,オルランドがフィウメ問題を不満として引上げてからはほかの三巨頭によって進められたと言ってよい。総じて言えば,ウィルソンは無合併・無賠償・国家をコントロールする国際機関の設置など理想主義的であったのに対し,対独憎悪を強く打ちだし,敗戦国の領土の割譲,多額の賠償金を主張したのがクレマンソーで,ロイド=ジョージはヨーロッパの勢力均衡が失われフランスのみが強国になることを警戒した。会議中に,ドイツでミュンヘン=ソヴィエト,クン=ベラがハンガリーにソヴィエト政権を樹立したことが会議の進行を急がせ,協商側にありながらブレスト=リトフスク単独講和を結んだロシアの処置が問題になった。一般に,それぞれの国の利害が大国の利害とからみあって,その調定が困難であった。
【敗戦国との条約】1919年5月7日,対ドイツ講和条約案がドイツに渡され,ドイツはそれを承認せざるを得ず,6月28日ヴェルサイユ条約が,1871年にドイツ帝国成立を宣した鏡の間で調印された。
オーストリア共和国は1918年11月12日に誕生したので,公的には戦争に参加していないと主張したが拒否され,サン=ジェルマン条約(サン=ジェルマン=アン=レ宮殿で結ばれたため)に調印し,ブルガリアはスイスのヌイイで調印した。ハンガリーはソヴィエト政権が一時存在したために条約の締結が遅れ,1920年6月4日,ヴェルサイユのトリアノン宮殿でトリアノン条約を結んだ。トルコは1920年8月10日,セーヴル条約を結んだが,ケマル=アタチュルクのトルコ共和国が生まれ,セーヴル条約は実行されず1923年7月24日はるかに有利なローザンヌ条約を結んだ。セーヴル条約の成立でパリ講和会議は終わったとみなされる。
【国際連盟】ウィルソンの14カ条提案に基づき,歴史上はじめて集団的な国際安全保障機関として,国際連盟が誕生した。連盟規約は1919年4月28日の総会で承認され1920年1月10日に正式に発足した。事務局をジュネーブにおき,総会・理事会のほか,付属機関として国際労働機関や国際司法裁判所をもった。しかしアメリカは最初から参加せず,制裁規定が不十分であったことなどの理由から,1930年代に入ると,その機能は低下していくことになった。