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●パリ協定 パリきょうてい

AD1954 

 1954年10月23日,ドイツ連邦共和国(西ドイツ)・ベルギー・フランス・イタリア・ルクセンブルク・オランダおよびイギリスの間で調印された協定。第二次世界大戦後,1946年以降のポーランド・ルーマニア・ハンガリーなど中東欧諸国での強引とも言える親ソ共産主義政権の樹立と,イラン・トルコなどへのソ連の膨張政策を前に,アメリカは1947年3月のトルーマン宣言をはじめとする封じ込め政策を打ち出し,ここに冷戦が始まった。封じ込めの手段は,1948年3月のブリュッセル条約による西ヨーロッパ連合の結成,翌1949年4月の北大西洋条約機構(NATO)結成といった共同防衛,および1947年6月のマーシャル=プランの発表と1948年4月のヨーロッパ経済協力機構の発足といった経済復興であった。1948年2月のチェコスロヴァキアでの共産主義政権樹立,同年10月〜1949年5月のベルリン封鎖以来,とりわけ1950年6月の朝鮮戦争勃発以来,西ドイツ再軍備がアメリカによって要求されてきた。1870年の普仏戦争以来ドイツに対して脅威を抱くフランスは微妙な立場に立たされる。NATO 加盟・マーシャル=プラン受け入れと,徐々にアメリカを盟主とする西側陣営に組み込まれながら,ドイツの封じ込め・非武装を強く望むからである。西ドイツ再軍備を含む政治・軍事的なヨーロッパ統合は,1950年5月のシューマン=プランに基づくヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)以上にフランス国内での抵抗を見る。アメリカの西ドイツ再軍備要求に対して,フランス首相プンヴァンはその要求を認め,かつ中和化するプレヴァン=プランを1950年10月に提唱した。それは超国家的性格をもつヨーロッパ防衛共同体(EDC)のもとにヨーロッパ軍を設置し,ドイツ軍をそれに統合しドイツ軍の自律性を除去するというものであった。アメリカの同意を背景に西ドイツの NATO 加盟・主権回復問題を絡めつつ交渉が進められ,1952年5月,西ドイツ・ベルギー・フランス・イタリア・ルクセンブルク・オランダの間で EDC 条約が調印された。西ドイツ再軍備とヨーロッパ軍への各国軍の統合を承認しつつも,EDC 閣僚理事会の全会一致制(したがって西ドイツにも拒否権)によって超国家性は弱められていた。しかし,スターリンの死(1953年3月),朝鮮戦争の終結(同年6月)と雪どけ(デタント)の兆しが見え始め,西ドイツ再軍備の緊急性は相対的に薄らいだ。フランス国内ではアメリカ・ソ連二極構造からの自立を主張するド=ゴール派のフランス国民連合が国民議会第一党となっていた(1951年6月)。フランスの主権喪失への反対,アメリカ・イギリスの不参加による不安もあって,1953年1月にようやく国民議会に上程された EDC 条約批准案件は,1954年8月に否決され EDC は流産した。その直後,イギリスのチャーチル首相・イーデン外相は1954年9月のロンドン会議を提唱した。1948年のブリュッセル条約の改定による西ドイツ・イタリア両国の同条約加盟,ドイツの主権の回復,加盟各国軍に対するコントロール(ただしフランス海外軍には及ばない),アメリカ・イギリスによるヨーロッパ防衛の分担・保障,ドイツの平和的再統一原則の承認などを内容とするイーデン=プランは基本的合意を見る。これを受けてパリ会議が開かれ,10月23日のパリ協定調印に至る。その内容は,西ヨーロッパ連合(WEU)の拡大,防衛同盟としての WEU 軍の NATO による統合,したがって NATO への西ドイツの加盟,西ドイツの主権の完全回復,ザール地方の国民投票・地方議会選挙による地位決定などであった。フランス国民議会ではマンデス=フランス首相が人民共和派・共産党の反対を押しきり,1954年12月末ようやく第2回投票で批准を得た。パリ協定は翌1955年5月に発効,西ドイツとイタリアは NATO に加盟した。ザールは1957年1月までに西ドイツに併合される。他方,こうした西側陣営の編成に対抗して,1955年4月にワルシャワ条約機構が結成され,ドイツ民主共和国(東ドイツ)も1956年にこれに加盟した。