●パリ
ヨーロッパ フランス共和国 AD
フランスの首都。同時に県でもある。【地理上の特徴】緯度からすると,北海道のさらに北,サハリンと同等の位置にあるが,メキシコ湾流の影響などで気候的には温暖で冬も極寒ではない。しかし高緯度のゆえ夏期は昼が長く,逆に冬の日照時間は短い。中心部をほぼ東西にセーヌ川が流れ,近郊ではマルヌ川とオワーズ川が合流していることから,古くより東西・南北を結ぶ交通の要所であった。セーヌ川に浮かぶシテ島を中心に楕円形に発展してきた都市は,現在,東のヴァンセンヌ・西のブローニュの森林公園を含め面積105平方km。円周部はモンマルトルなど丘陵を成している。それらの丘陵部から産出された石が,かつての都市発展に必要な建築材料を提供した。
【起源から中世まで】セーヌ河畔には,旧石器時代からの生活の跡が知られているが,現在ノートルダム聖堂のあるシテ島に前3世紀ごろからケルト民族系のパリジィ人が住みつき,漁労・交易を行ったのが直接の起源と見られる。ルテチアと呼ばれたこの集落は,やがて前52年ガリア征服中のローマ帝国軍によって支配下におかれた。1世紀から3世紀にかけてローマ帝国支配のもとに主にセーヌ左岸が開拓され,その当時の名残りは,クリューニー修道院内にある浴場跡やルテチアの円形闘技場の遺跡として今も見ることができる。ユリアヌス帝は,360年この地で皇帝に推挙された。5世紀半ばになると,アッチラの率いるフン族の襲来を見るなど一時荒廃を経験するが,6世紀はじめより,クローヴィスと彼に続いた諸王がここを首都とするに及んで左岸のみでなく右岸も発展した。いくつも建立された修道院は,宗教的にも重要な性格を都市に与える。有名なサン=ジェルマン=デ=プレの教会もこの時代に淵源をもつ。しかしメロヴィング朝末期からカロリング朝時代には政治的中心の位置からははずされ,カール大帝もドイツのアーヘンを本拠とした。9世紀後半にはノルマン人,いわゆるヴァイキングがセーヌ河口からさかのぼって幾度となく襲来し,ガロ=ローマ時代以来の都市周辺部はいったん壊滅させられた。だが最終的にノルマン侵入を自力で撃退したパリは,カペー朝台頭とともにフランスの首都として政治的・経済的発展を本格的に開始する。それは10世紀末以降のことであった。とりわけフィリップ=オーギュストの統治のもと,13世紀はじめに周囲は市壁で固められ主要な街路には舗石が敷かれた。さらにセーヌ川に橋がかけられ左右両岸とシテ島とが結びつけられることになった。右岸は主に商業地区として栄え,左岸にはパリ大学が設置されるなど,後にカルチエ=ラタンと呼ばれる学問研究地区がヨーロッパ中から神学者を集める。当時王宮のあったシテ島では1163年からノートルダム聖堂の建築が始まり,百年以上の歳月を費やして完成された。14世紀には市壁の範囲も拡大され,一説では推定20万といわれる人口をかかえたヨーロッパ第一の都市に成長する。商業の発展で経済力をつけた市民たちは,英仏百年戦争の生じた中世末の混乱期にはしばしば王権と対立する動きをおこした。なかでも1358年のエチエンヌ=マルセルの乱は有名である。
【近世,王権の時代】フランソワ1世のもとに王権が強化され,1528年に国王の本拠がおかれると,ルネサンス様式の建物が次々と新築されていく。16世紀後半には,宗教戦争のもとでまたしても混乱の時代を迎えるが,宗教対立を収拾したアンリ4世の統治下から都市の美化が推進された。現在も美しい姿をとどめるヴォージュ広場やドーフィーヌ広場はこの時代の産物である。1648年のフロンドの乱で王権に反抗したパリを嫌ってルイ14世はヴェルサイユに王宮をつくり,1682年にはそこを行政の本拠とした。しかし宰相コルベールの指導下にパリには王権をたたえるための大建築物や広場がつくられ,パリは商業中心地としてはもとより,宗教や文化・芸術の都として全ヨーロッパに名が通ることになる。18世紀の啓蒙の時代にはその名声はさらに高まり,町は西に向かって広がり,現在のコンコルド広場やシャンゼリゼ大通りの原型もこの時代に形成される。国王の本拠はヴェルサイユだったとはいえ,フランス革命前夜において推定65万の人口をかかえるパリは,実質的にあらゆる面で王国の首都としての役割を果たし,啓蒙のヨーロッパの代表的都市であった。膨張した都市の機能と秩序を保全するために,街頭照明や保健衛生への配慮なども含めた警察機構が整備され,プレ都市計画と言い得るような試みが始められたのもこの時期であった。
【大革命から現代へ】1789年バスチーユ襲撃に端を発した大革命のもとで,パリは形式上もまた首都に返り咲く。大革命の動静にパリの市民やサン=キュロットの果たした役割は極めて大きかった。ナポレオン体制と復古王政を経て19世紀半ばすぎまでのパリは,フランス全体の政治動向と結びついて,1830年七月革命,1848年二月革命,6月暴動,1871年パリ・コミューン蜂起をはじめさまざまな政治運動や社会運動にゆれ動く激動の首都となる。1846年に人口約105万,周辺町村を合併した後の1861年に約170万人,1901年には270万余と,この時代は人口膨張が極端に急激に進行した。その大多数は労働者人口であったが,上下水道や街路の整備,建物や衛生状態の改善など都市生活に必要な諸制度は人口の急増に追いつかず,多少とも整備されてくるのは世紀末であった。その間,主に西よりの地区に住む裕福なブルジョワと,中心から北および東よりに住む労働者との階層間格差は極めて大きかった。そうしたなかで,七月王政下の1830年代から労働運動や社会主義運動が独自に台頭した。パリが政治・経済・文化など多面にわたって圧倒的な中心となり,現在に連なる姿をとっていったのは第二帝政期からである。周辺町村を吸収して東西の森林公園を除いて現在と同規模になり,全体を20の行政区に分割しさらに各区を四つの地区(カルチエ)に区分する制度も1860年以来今日まで変わらない。当時のセーヌ県知事(ほぼ現在のパリ市長にあたる)オースマンによって始められた都市改造(オースマン化)が,旧市街を整備して幅広い大通りを幾本も通し,下層民衆が集積していた古い建物を中心部から一掃する。コミューン蜂起と内乱は改造の展開を一時中断させるが,第三共和政になった後にも改造は続行され現代のパリの基本的な姿が用意された。世紀末にはエッフェル塔や地下鉄の建設など,鉄と電気に示される新しい工業文明が現れ改造の動きを引き継ぐ。同時に周囲の堡塁は撤去されはじめ,都市は閉じられた空間からより開かれた首都圏として発展しだすのである。
【現在の役割】20世紀に入ってからも,パリは二度の大戦・人民戦線さらには1968年五月革命と,フランス全体の政治や国際政治にかかわるさまざまな舞台を提供してきた。文化面でも,世界各地から前衛的な芸術家や文学者が集まり芸術の都と呼ばれてきた。ファッションでも,ながらく世界の流行の発祥地であり,服飾産業はパリの重要な経済部門をなしてきた。19世紀以来,市内にあった工場は徐々に近郊などへ移転し,とくに中心部は,現在では商業やサービス業・文化関連産業など第三部門が主軸をなしている。全主要銀行と,大企業の70%ほどが本店を市内中心部にもち,証券取引所の取扱い高は全フランスの95%を占める。官庁や議会はもとより,ユネスコや OECD の本部もあり,政治的にもフランスの圧倒的な中枢である。市内人口は1975年に約230万。1968年の260万,1962年の280万に比べ減少傾向は明瞭で,代わりに周辺部は,約1,800平方kmに820万の人口を抱える巨大な首都圏となりつつある。通勤に伴う交通混雑・大気汚染,都市内の再開発や旧植民地系の移民労働者や失業などの社会問題と,将来に向けて解決すべく抱えている問題は少なくない。
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