●バラモン教 バラモンきょう
アジア インド AD
これに関して類以したことばと定義があって紛らわしい。[1]インド=アーリヤ人の間から創始者のない民族宗教として生まれ,しだいに非アーリヤ人の間まで広がっていった。前10世紀〜前8世紀から遅くても後数世紀までを狭義のバラモン教という。[2]早くても紀元前後,遅くて紀元数世紀から現代までの[1]が変化・発展したもの,すなわち,非アーリヤ系原住民の信仰・生活慣習を摂取,[1]と混合・融合したもの。ヒンドゥー教・インド教という。[3]前10世紀より現代に至る3000年間連綿と続いてきたもので,[1]と[2]とを併せたもの,ヒンドゥー教・インド教・バラモン教と呼ばれる。ここでのバラモン教は広義であるが,現在ではしだいに使われなくなった。したがってここでは,[1]の意味に限ることにする。印欧語族に属するインド=アーリヤ語族が,南アジアの西北部から侵入し,前1000年ごろにはパンジャーブ地方からジャムナ河とガンジス河の中間地帯に定住し,農村社会を確立しバラモン教が普及するに至った。リグ=ヴェーダのなかで祭祀がしだいに重要視される傾向があったが,この地に定住してから祭祀を司り祭贄によって神々を満足させ,祭式に関する専門的知識をもち祭式教学を独占して神の恩恵を人々に伝えるという司祭階級としてのバラモン婆羅門の地位が確立し,宗教的・社会的指導者となった。肥沃な両河地帯でのアーリヤ人の覇権・バラモン教の確立の後,彼らはガンジス河沿いに東漸した。前6世紀前後にはガンジス河中流にも両河地帯に対抗して強力な国がいくつかできた。そこには仏教・ジャイナ教・その他バラモンの権威を否定する新思想が生まれた。しかしいずれにしろ,アーリヤ人は非アーリヤ人を征服・放逐・混血によってガンジス下流まで支配し,南インドにドラヴィダ人を追いやった。マウリヤ王朝のときにはベンガル湾からグシャラート・パンジャーブ・ネパールに及んだ。非バラモン教思想とその勢力が活発になったが,大観すると,結局は依然としてバラモン教の力が強固であり,南のドラヴィダ人の間にもかなり前から受容されていた。【バラモン教の特質】[1]インド亜大陸に生まれ育った開祖のない民族宗教。[2]バラモン教徒は世襲的で,それ以外の人たちの改宗が難しかった。[3]インド=アーリヤ人が主体であるが,ドラヴィダ人を征服していく過程において,例外的にドラヴィダ人は改宗することが許された。[4]ヴェーダの権威は絶対で神聖である。[5]バラモンは祭祀およびヴェーダの教授を独占し,宗教的・社会的生活の頂点に立つ。[6]四種姓=カースト体制がしだいに確立。四種姓は,第1位バラモン,第2位クシャトリヤ(刹舎利,王族。政治や軍事に従事,自分のための祭祀・ヴェーダ聖典の学習・布施。)第3位ヴァイシャ(毘舎。商業・農業・牧畜,自分のための祭祀・ヴェーダ聖典の学習・布施。)第4位シュードラ(首陀羅。上位三種姓への奉仕。)以上四つの宗教的・社会的区分である。一方,カーストはより細別された固有の職業をもった排他的集団で,大きな枠組みの四種姓に属している。四種姓とカーストは,排他的内婚・世襲的職業・上下貴賤浄不浄の秩序体系,という特質をもっている。[7]バラモン教の後半期には初期のバラモン教学が成立した。[8]神に関して,バラモン教学上はさまざまな説があるが,信徒たちは現実的には多神を崇拝していた。[9]バラモン教の寺院は,他の宗教に一般に見られる総本山=末寺体制よりは各村落に密着している。また四種姓=カースト体制も,それらが相互補完的・相互扶助的自治的な村落共同体を形成するようになってきた。このバラモン教が土着の多様な要素を併合しながらヒンドゥー教に発展した。
〔参考文献〕山崎利男『ヒンドゥー教』1969,淡交社
渡辺照宏『インド教』1960,白水社
中村元『ヒンドゥー教史』1979,山川出版社