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●原敬 はらたかし

アジア 日本 AD1856 江戸時代

 1856〜1921(安政3〜大正10)日本近代の代表的政党政治家。南部藩重臣の二男として盛岡に生まれる。1871年(明治4)上京して苦学の末,1876年司法省法学校に入ったが,1879年賄征伐の処分をめぐって学校当局と争い退校させられ「郵便報知」の記者となる。1882年官僚系の「大東日報」主筆に転じ,井上馨・井上毅に認められて半年後に外務省に入る。1883年薩摩出身の官僚中井弘の娘貞子と結婚(1905離婚)したあと天津領事となって情報入手に才腕を示し,1885年パリ公使館書記官としてフランス行政を実地に学ぶ。1889年農商務省に移り陸奥宗光に知られ,1892年陸奥外相のもと通商局長,1895年外務次官に進み,日清戦争時の陸奥外交を補佐した。1896年朝鮮公使になったが翌年退官して大阪毎日新聞社長に就任。読者倍増の経営手腕を示した。1900年(明治33)立憲政友会結成に参画し,幹事長を経て第四次伊藤内閣の逓信大臣に就任。1902年盛岡市より代議士に当選,以来その死まで議席にあった。1901年北浜銀行頭取として財界に関係。1905年には古河鉱業の副社長に就任,以後陸奥の親戚たる古河家の後見役を務めた。日露戦争後の桂・園内閣時代には,二度の西園寺内閣に内相として入閣。松田正久と並ぶ政友会の重鎮であった。鉄道・道路・港湾建設など地方民の要求に応えることにより政友会の地盤を強化し,衆議院の過半数を制し,この勢力を背景に抜群の交渉能力(有名な「原敬日記」はその有力な武器)をもって官僚勢力と取引きし,長州閥の桂太郎政友会総裁西園寺公望との政権授受の舞台廻しを務めた。桂・園の提携が破れ,第一次護憲運動で第三次桂内閣を倒したあと山本権兵衛内閣の内相となり,西園寺引退のあとを受けて1914年(大正3)6月第3代政友会総裁に就任。第一次世界大戦下,第二次大隈重信内閣による1915年の総選挙では大敗を喫して第二党に転落したが,党内のとりまとめにも手腕を発揮し,次の寺内正毅内閣では臨時外交調査委員会委員に列するなど準与党の立場をとり,1917年の総選挙で第一党の地位に復帰した。1918年の米騒動では,事態を静観し,寺内辞任のあと政党首領としての資格においてはじめて首相に指名され,外務・陸軍・海軍の三大臣を除く全閣僚をすべて政友会員から起用する政党内閣を9月29日に組閣した。世論は衆議院に議席をもつ――彼はこのため爵位をつねに辞退し続けた。有爵者は代議士になれぬ規定がある――首相を“平民宰相”と呼んで歓迎した。第一次世界大戦下の資本主義の高度成長を背景に,国防の充実・教育の振興・産業の奨励・交通機関の整備の四大政綱を掲げて積極財政政策を推進し,党勢の拡大に努め,1919年初めの第41議会で小選挙区制を通過させ,普選運動鎮圧の意味をもこめた翌年2月の第42議会解散による選挙で464議席中278を占める記録的大勝を果たした。大戦直後の世界的激動に対しては漸進的改革路線をとった。国内における大正デモクラシーの昂揚に対しては,選挙権納税資格の低額化と公民権の拡張による有権者の拡大,および陪審法の採用(実現は没後1923)をもって応じたが,普選即行に反対し治安警察法の改正,労働基本権の承認という労働者の要求も退けた。また急進的社会思想を恐れること甚しく,森戸事件など言論・思想の自由を抑圧し新しい治安立法を準備した。対外的には,日露戦後以来,持論たる英米とくにアメリカとの協調政策を推進し,前内閣のような露骨な中国侵略政策を中止し,シベリアからの早期撤兵をももくろんだ。しかしアジアにおける民族主義の勃興には必ずしも順応せず,従来の同化政策を保持しわずかに植民地長官武官制を文武官併任に改めるに止まった。これらの諸政策は山県有朋を頂点とする官僚勢力の支持を受け,貴族院の最大会派研究会は政友会と提携し,内閣は貴衆両院に地盤をもつかつてない強力な存在を誇った。しかし漸進主義への不満に満鉄事件・アヘン事件など汚職事件が加わって民心が離れ,ワシントン会議と戦後不況に直面して政策転換を模索中,1921年11月4日,東京駅で中岡良一に刺殺された。

〔参考文献〕前田蓮山『原敬伝』1943

山本四郎『原敬』1971

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