●林羅山 はやしらざん
アジア 日本 AD1583 室町時代
1583〜1657(天正1〜明暦3)江戸初期の儒者。通称と本名は又三郎信勝、字は子信、幼名は菊松麻呂、羅山は号、僧号は道春。父は信時、母は田中氏、兄弟4人中の長男。羅山の妻は荒川氏(名は亀)、4男1女を生む。羅山は京都に生まれ幼時から米穀商である伯父吉勝の養子として育つ。1595年13歳で洛東山建仁寺の大統庵に入り、古澗慈稽(こかんじけい)に師事、臨済禅の修行をするとともに儒書・漢詩文を学ぶ。1597年15歳で出家することを拒んで家に帰り儒学に専心。1600年18歳で朱子の『四書集註』を読み始め1604年22歳のとき藤原惺窩に師事する。翌年、二条城で徳川家康に謁見。翌々年、ハビアンと論争して切支丹宗を排撃し、またこの年前後のころ日蓮宗不受不施派である松永貞徳の信仰を論難する。1607年25歳で幕府に出仕し剃髪して道春と号する。これ以後、家康・秀忠・家光・家綱の諮問に応じて儒書を進講し、幕府法令や外交文書を起草し、方広寺鐘銘の解釈で豊臣家討伐を正当化し、『寛永諸家系図伝』『本朝編年録』を幕命によって編さんした。1618年36歳で江戸に屋敷地を与えられ、1630年48歳で家塾の土地と費用を与えられる。1632年50歳で尾張藩主徳川義直の援助によって先聖殿を建立した。禄高は300俵から917石、僧位は民部卿法印から同法眼に至る。羅山は朱子学を学びながら、初め陽明学の理気一元論の影響を受けていたが40歳前後から朱子学の理気二元論に従う。しかし、五経に訓点を施し、兵法・老荘・国文学などの広範囲の書物に注釈を行い、中国の白話小説を翻訳し、神儒習合の理当心地神道を唱えるなど幅広い問題関心をもっていた。主著は上記のほかに、『四書集註抄』『性理字義諺解』『儒門思問録』『神道秘伝折中俗解』など。
