●破門 はもん
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一般的には師弟の縁を絶って門弟を一門のなかから追放することである。元来,宗教共同体からその構成メンバーを追放・駆逐するものであり,そこには宗教社会学的な構造が見られる。破門ということばは,創唱宗教など,一般社会内に成立した宗教共同体からその構成員が追放・排除されることを意味するが,そのような現象の歴史的背景は広く未開社会や古代都市国家など,社会共同体がそのまま,一元的に宗教共同体であるような社会にも見られ,そこにはさまざまの類型の破門があると考えられる。いずれにしても,破門は,共同体を支える宇宙の秩序と構造を維持するため,あるいはまた同時に秩序の違反者を悔い改めさせるために,秩序を犯す者をその共同体の構造の外に追放することであり,そこには見せしめのためにスケープゴートにしたり,トリックスター(道化)を抑圧するという意味が含まれている場合も少なくない。アルカイックな社会では,多くの場合,個人の生活は共同体から離れて存在せず,共同体の掟やタブーの侵犯によって共同体からの追放が行われる場合,それは死に等しい罰でありしばしばその追放に聖なる秩序の回復が意図されている。たとえば日本神話ではスサノオが高天原で天津罪を犯した結果,宇宙の均衡が破壊され〈ここに高天原皆暗く,葦原の中の国悉に闇し……さ蠅なす満ち,万の妖(わざわい)悉におこりき〉(『古事記』)という状況がおこり,根の国(出雲)に追放される。同様に,軽大娘皇女は近親相姦の罪で伊予に流されている。そのような流刑・追放は,日本では歴史時代に入っても政治権力の抗争がらみで多く見られるのである。
破門・追放はユダヤ教(「レビ記」13章,「民族記」9・12章)・古代ギリシア・ローマにも見られた。有名なものでは哲学者ソクラテスの例がある。ソクラテスは若者をかどわかすという罪でアテナイの市民権を剥奪され,アテナイ追放という処罰を受けることになったが,拒否して自殺の道を選んだと言われる。また後には1656年に哲学者スピノザがユダヤの律法を侮辱した罪で永久破門を受けている。
宗教の伝統のなかで破門の制度を最も大きく発展させたのはキリスト教,とくにローマ=カトリック教会である。破門の根拠としては『マタイ伝』第16・18章や,『ヨハネ伝』第12・16章のキリストのことばが引かれる。キリスト教で破門を制度化したのはパウロであると言われ,その場合破門は信徒の懲罰というよりも信徒組織,すなわち教会を守る目的で行われた(『コリント前書』第5章・『ティモシイ前書』第1章)。カトリック教会法では破門は通常受法者を秘跡から排除したり,信者の交わりから追放する懲戒処分である。しかし,7世紀までは教会において破門された罪人は徐々に神に許されるとされていたものである。中世になると法的な処罰の性質を帯びるようになり,大きく二種類に分けられるようになった。一つは小破門で,秘跡・準秘跡・教会職位からの排除などであり期限つきとされることもある。もう一つは大破門で,ほかの信者との交流がいっさい禁じられ教会からの排除は来世にまで延長される。礼式書に定められた法式で科せられる破門はアナセマと呼ばれ,永遠に神の恵みを受け得ない極刑である。中世ヨーロッパ社会ではキリスト教が大きな影響力をもっていたから,破門は教皇の国王に対する権勢争いの武器として用いられしばしば成功を収めた。
ほかのキリスト教会も同様の破門を行った。東方教会や英国国教会のそれはカトリックの破門に近いものであったし,カルヴァンも破門は善きキリスト者が悪しきものから汚されることを防ぎ,破門された人を悔い改めせるためのものだとして同様の処置をとった。植民時代のアメリカのニューイングランドでは公の罪人の破門として広く行われ,イギリスやアメリカの改革派の教会でもさまざまな破門が行われた。時代が下るにつれて破門の規則はゆるやかなものになり,単に教会員名簿から名前を抹削するだけの意味しかもたない場合も多い。