●ハプスブルク家 ハプスブルクけ
ヨーロッパ オーストリア共和国 AD
オーストリアの王家。ドイツ王・神聖ローマ皇帝位を世襲的に占めたヨーロッパの名門。【起源】ハプスブルクの名はライン上流にあった居城ハビヒツブルク(鷹の城)に由来すると言われるが,この城は1020年ごろに建てられた。それをさかのぼってもこの家の起源はわからない。13世紀にルドルフが神聖ローマ皇帝に就位したころから,帝位を継ぐにふさわしい家柄を立証する作為がなされた。ローマ時代の名門貴族のいくつかがその祖先とされ,時にはカエサル一門から出たとされた。また,フランク人やトロヤ人に起源を求める説も出された。それはハプスブルク家の権威が高まるにつれて誇大化され,ブルボン家への対抗上から大げさになっていった。これらは「つくられた家系」として,今日では否定されている。シュヴァーベンとエルザス公であったエティヒョー家が祖先であるとする説が一時定説とされたが,これも疑わしい。現在では,11世紀以前については不詳とするのが妥当で,11世紀にはスイスのアレマン地方が所領地であったとされている。
【最初の帝位】11世紀にスイス・上ライン・エルザスに広大な所領地をもち,13世紀初めには南ドイツで最も有力な諸侯となった。ドイツでは皇帝フリードリヒ2世が没した1250年ごろより,帝位継承の混乱,ライン都市同盟をはじめとする都市同盟の対立などの社会的対立のなかで大空位時代が始まった。パプスブルク伯アルブレヒト4世の長子ルドルフ1世(在位1273〜1291)が同家出身者として初めて皇帝に選ばれたのは,一種の妥協策であった。彼は混乱のなかで所領地を拡大したが,とりわけ,ボヘミア王オタカル2世と争いオーストリア・シュタイエルマルクなどを収めたのは意味深い。
【世襲の皇帝】ルドルフの子アルブレヒト1世(在位1298〜1308)は,アドルフのナッサウと争い帝位に就いたが,教皇がこれを認めずドイツ王にとどまった。アルブレヒト2世(在位1438〜1439)は皇帝となり,以後,世襲的に帝位を独占するようになった。マクシミリアン1世(在位1493〜1519)は教養高く,文芸の保護者で「最後の騎士」と称されたが,結婚政策によってブルゴーニュ・ハンガリー・ボヘミアを得,その孫であるスペイン王カルロス1世が神聖ローマ皇帝カール5世(在位1519〜1556)となったことからスペインも取得した。次代よりオーストリア=ハプスブルク家が帝位を,フェリペ2世からのスペイン=ハプスブルク家にと分かれたが,同家がヨーロッパの先進地域を独占し海外植民地ももって,オスマン=トルコの西進を抑え,フランスを圧して全盛期を迎えた。
【衰退】17世紀に入ると,三十年戦争によって所領地の繁栄が失われ,ウェストファリア条約によってスイスやオランダの独立が認められ,ドイツの分邦状態が決定的となった。また,1701〜1714年のスペイン継承戦争の結果,スペイン王位をフランスのブルボン家に譲ることになった。大局的に言えば,ブルボン家との抗争に敗れたのであり,南東方面ではトルコ侵入に苦しめられた。カール6世(在位1711〜1740)はプラグマティッシェ=ザンクツィオンを残して死んだが,その後を継いだマリア=テレジアの時代にオーストリア継承戦争・七年戦争がおこり,シュレジェンを失った。七年戦争に際しては犬猿の仲であったフランスと同盟して外交革命を起こした。なお,マリア=テレジアがロートリンゲン家のフランツ1世と結婚したので,同家はハプスブルク=ロートリンゲン家となった。
【滅亡】ナポレオンに敗北したことで,1806年神聖ローマ帝国は亡び,1848年には革命がおこった。1866年,フランツ=ヨーゼフ1世(在位1848〜1916)の時代に普墺戦争に敗れてハプスブルク家はドイツ統一から除外され,翌年オーストリア=ハンガリー帝国となった。帝国主義時代にはドイツの政策に追従することが多く,フランツ=フェルディナンドが射殺されたことで第一次世界大戦が始まり,敗れてカール1世が退位して終わった。
〔参考文献〕アーダム=ヴァントルツカ,江村洋訳『ハプスブルク家』谷沢書房
下津清太郎『ハプスブルク家』近藤出版