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●ハノーヴァー家 ハノーヴァーけ

ヨーロッパ 英国 AD 

 ドイツ語ではハノーファー。イギリスの王家(1714〜1901)。

【起源】イギリスの王家ステュアート家アン女王が死亡すると(1714),王位継承法(1701)に基づいて,ドイツのハノーファー選帝侯妃ソフィアの長子ゲオルクが王位についた。この王位継承法は,名誉革命後,カトリックであるジェームズ=エドワードの系統への王位移行を阻止するために制定された。そして具体的には王位継承の順位として,ウィリアム3世の死後はアン公女(王位についてアン女王),アンの死後はジェームズ1世の孫娘で新教徒であるソフィアおよびその子孫が王位につくべきことを規定した。ところが,アン女王の死の2カ月前にソフィアは死亡していた。そこでソフィアの子ゲオルクがイギリス王位についた。彼は即位してジョージ1世と称し,ここにイギリス王朝としてのハノーヴァー朝が始まった。ところが彼は,すでに1698年に,父エルンスト=アウグストの後をうけてドイツのハノーファー選帝侯の地位についていた。こうして彼がイギリスの王位についたことにより,イギリスとハノーファー公国とは,同君連合をなすに至った。

【イギリス王家=ハノーヴァー家】イギリスの王位についたジョージ1世は,英語も知らずイギリスの制度慣習にも通じていなかった。そして彼はイギリスの政治に興味をもたず,政治の実権は首相ウォルポールが握り,“王は君臨すれども,統治しない”責任内閣制が発展するに至った。その後,ハノーヴァー朝は,ヴィクトリア女王の治世(1837〜1901)まで続く。ところがイギリスでは王位の女子相続が認められていたが,ハノーファー王国では,王家のすべての男系親族が絶えた場合にのみ女子相続が認められていた。そこでヴィクトリア女王の即位に伴って,ハノーファー王国では,ヴィクトリア女王の叔父アーネスト=オーガスタス(ドイツ名エルンスト=アウグスト)が王位についた。123年間続いたイギリス=ハノーファー同君連合は解消された。そしてヴィクトリア女王の死後イギリス王位についたエドワード7世は,女王の夫アルバート公の生家であるドイツのサクス=コーバーグ=ゴータ(ドイツ語ではザクセン=コーブルク=ゴータ)の家名をもって,王家の名称とした。さらにエドワード7世の次男で,父の後を継いだジョージ5世は,第一次世界大戦中の1917年,彼自身および国民の反独感情のため,サクス=コーバーグゴータという敵国ドイツ系の名称を嫌って,王宮所在地の名をとって王家名をウィンザー家と改称した。

【ドイツのハノーファー家】1714年からイギリスと同君連合の関係にあったハノーファー公国は,イギリスの対外政策によって動かされた。ジョージ2世の治世(1727〜1760)には,オーストリア継承戦争に介入し,イギリス=ハノーファー連合軍を結成してフランス軍と戦い,七年戦争ではプロイセンを支持して戦った。またジョージ3世は,前二代の国王と違ってイギリスに生まれハノーファーを訪れることもなかった。しかし彼の治世(1760〜1820)には,フランス革命に介入しハノーファー軍はフランス軍と戦った。一時期ナポレオン軍にドイツ諸邦国が制圧されたとき,ナポレオンによって創出されたヴェストファーレン王国にハノーファーは併合された。しかしウィーン会議(1814〜1815)で独立を回復され,王国に昇格を認められた。1837年にイギリスとの同君連合が解消されたが,新王エルンスト=アウグスト(在位1837〜1851)は反動的政治を行い,「ゲッティンゲンの七教授事件」をひきおこしている。次王ゲオルク5世の治世(1851〜1866)は,プロイセンとオーストリアの対立が激化した時期であった。ゲオルク5世は,プロイセン首相ビスマルクによる再三の要請にもかかわらず,普墺戦争ではオーストリア側に立って戦い敗北し,1866年ハノーファーはプロイセンに併合された。

〔参考文献〕佐藤功『君主制の研究』1957,日本評論新社

東畑隆介「ハノーファー王国の憲法紛争」史学49―4,1980