●パドリ戦争 パドリせんそう
アジア インドネシア共和国 AD1821 オランダ領東インド
1821年から1837年にかけてインドネシア・西スマトラのミナンカバウ社会を中心におこった戦争。最初は宗教改革運動であったものが後に反オランダ闘争へと転換した。ジャワのディポ=ヌゴロ戦争と並び,19世紀前半のオランダ領東インドにおける反植民地闘争の代表的なもの。【ミナンカバウのイスラーム化】ミナンカバウ社会は,その独特な母系制親族制度にもかかわらず,父系制的要素の濃いイスラーム教を信奉していることで有名である。現在までのところ,この社会のイスラーム化に関する詳細は定かでない。西スマトラの海岸地帯は,16世紀末から17世紀半ばにかけてイスラーム王国アチェの支配を受けており,ミナンカバウの本格的イスラーム化もこの時代に始まるものと考えられる。当初西スマトラに広まったイスラームは,スーフィー派に属するシャタリア派である。シャタリアはインドの影響を受けた神秘主義的イスラームである。
【戦争の歴史的背景】パドリの語源およびその意味は明確ではない。ポルトガル語のパドレ padre(僧侶)に由来するという説もあれば,当時スマトラからメッカに行く際の経由地となっていたペディル(Pedir)に由来するという説もある。パドリ戦争は18世紀の末,西スマトラの内陸部におこった比較的穏やかな宗教改革運動に端を発する。17世紀の後半以来,西スマトラ海岸地帯はアチェの後オランダにより支配された。オランダは西スマトラ産物の金と胡椒の買いつけ・輸出を掌握するとともに,アヘンの専売を含む数々の経済的独占政策を打ち出した。オランダの経済活動はミナンカバウ社会の一部を潤すものでもあり,賭け闘鶏なども広く行われるようになった。アヘンの吸飲・賭博などの悪習の横行は,強盗・殺人・人身売買といった金めあての犯罪を助長した。1780年代末になると,西スマトラの内陸部を中心としてイスラーム戒律の真の遵守による社会悪の払拭を標榜する宗教改革運動がおこった。改革運動は1803年ごろ,イスラーム改革運動急進派ワハビ派の影響を受けた三人のミナンカバウ出身のハジがメッカから帰国することにより,急進的な段階へと移行した。急進化した改革連動の目的とするところは,『コーラン』と相反するミナンカバウの慣習をすべて廃止することにあり,『コーラン』の教えに逆らう行為は死をもって罰せられるべしというものであった。改革派はパドリ派ないし白派(改革派のまとった色)と呼ばれたのに対し,反改革派はアダット adat(慣習)派ないし黒派(アダット首長が身に着けた伝統的色)と呼ばれた。
【反オランダ闘争への転換】1781年以来,アメリカ独立戦争・ナポレオン戦争の結果による世界情勢の変動を反映し,オランダは西スマトラ海岸地帯からいく度となく後退せざるを得なかった。最終的にオランダがこの地に戻るのは1819年である。1821年,ミナンカバウの王を代表するという14人のアダット首長がパダンを訪れ,「ミナンカバウ王国」の譲渡を代償にオランダが宗教改革運動に軍事介入するよう要請した。オランダはこの要請を受諾したが,その動機の一つは当時マレー半島に地歩を築きつつあったイギリスに対抗し,このころコーヒー栽培地としても重要性を増しつつあった西スマトラ内陸部に政治的・経済的主権を確立することであった。オランダの本格的軍事介入は,ジャワで起こっていたディポ=ヌゴロ戦争の終結する1830年以後のことである。これ以降,世直し的宗教改革運動は徐々に外国勢力であり異教徒であるオランダに対する戦いに転じた。1837年,パドリ派の西スマトラにおける最後の拠点ボンジョルの砦が落ち,パドリ戦争の指導者のうち最も有名なイマム=ボンジョル(1772〜1864?)がオランダ軍に降伏し,ここにパドリ戦争は植民地権力オランダの勝利に終わった。独立後のインドネシア共和国においては,パドリ戦争は初期の反植民地闘争として高く評価されている。