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●バトゥ 抜都

ヨーロッパ ヨーロッパ AD1207 

 1207〜1255(在位1227〜1255)キプチャク=ハン国の祖。チンギス=ハンの孫,ジュチ(朮赤)の第二子。1235年,オゴタイ=ハンの開催したダラン=ダバスのクリルタイの決議に基づいて,ロシア遠征軍が組織され,バトゥがその総司令官となった。1236年,モンゴル本土を出発し,秋にはヴォルガ河流域のブルガール王国やキプチャクの諸部族を降して,目的のロシアの地に侵入した。まず,ロシア平原南端のリヤザン侯国を攻略,続いてモスクワを焦土としウラジミール侯国を討った。その後,ドン・ドニエプル両河の中間の牧草原で放牧し,1240年の秋,バトゥはモンゴル軍の再編制を行ってヨーロッパ侵入を開始した。まず西ロシアの要衝チェルニゴフ・ペレイスラフなどの諸城を陥し,ロシア全土の首都として繁栄を誇っていたキエフを攻略した。そして,バトゥはハンガリー草原へとなだれこんで行くが,このときバトゥ本軍を擁護させるべく副司令官スブタイ(速不台)をして,ポーランド方面の経略を任せた。そのスブタイの率いるモンゴル軍がドイツ領のシレジア州に侵入,リーグニッツに近い平原ワールシュタットで,シレジア侯ハインリヒの率いるポーランド軍・チュートン騎士団3万の連合軍を撃破した。1241年のことである。やがて両軍は合流し,ベラ4世の率いるハンガリー連合軍をサミ河畔で破り,続いて首都ペストを陥し入れた。1242年冬,オゴタイ=ハンの訃報が到着し全軍は漸次帰還の途についたが,バトゥはヴォルガ河下流域のサライに都してキプチャク=ハンと称し,ウラル河以西からクリミア半島に至る広大な草原地帯を支配した。なおこの遠征中,バトゥはオゴタイ=ハンの長子グユクと仲違いをし,これがやがてモンゴル帝国の政局に大きな影響を与えることになる。すなわち,グユク=ハン(定宗)の死後,トゥルイ家のモンゲ(憲宗)擁立はバトゥの絶大なる後援によるものであった。