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●服部之総 はっとりしそう

アジア 日本 AD1901 明治時代

 1901〜1956(明治34〜昭和31)昭和の歴史家。浄土真宗住職服部設満の長男。島根県津和野在の木田村生まれ。第三高等学校から東京帝国大学文学部社会学科卒業。志賀義雄と同窓。柳島セッツルメント活動に努力,佐伯某のペンネームで評論活動。労農党書記局につとめる。服部史学は羽仁五郎の維新史観の検討にひかれながらも,その文を小ブルジョア的と批判するとともに図式的な維新史観打破に努めた。1927年マルクス主義講座に『明治維新史』を書き,1932〜1933年にかけて『日本資本主義発達史講座』に三つの論文を書き,さらにマニュファクチュア論争をひきおこした厳マニュ説を説いている。1933年明研創立にかかわり1936年には花王石鹸の委嘱をうけ社史と長瀬富郎伝を書き,信夫清三郎とともに西陣・秋田藩の研究に努める。1938年花王石鹸入社。上海へ渡り,敗戦後学会復帰,鎌倉アカデミア組織,1949年日本共産党入党。1952年法政大学社会学部教授となる。1951年には日本近代史研究会などを組織している。彼は自己沈潜型・内省型のためノイローゼとなり,「親鸞ノート」の改稿に力を尽している。服部之総は『佐々田懋伝』を書いているが,歴史を身近なところで意識してとらえようと努めている。そのためつねに挫折感にうちひしがれつつ何かをつくりあげようと努力した。講座派にありながらも山田盛太郎平野義太郎羽仁五郎のような維新論をもってしては労農派を克服できないと考えている。彼はマニュファクチュア=ブルジョワジーの存在を予想し,一揆闘争だけで維新を説くことはできぬと述べ,農民一元論批判に尽くした学者である。著書には『服部之総著作集』全7巻1955,『服部之総著作集』全24巻,1973〜1976がある。