●八朔 はっさく
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旧暦8月1日のこと。盆の月も終わりいよいよ秋の実りを念ずるときで,全国各地にはこの日を節供とするさまざまな行事がある。その内容は農耕関連の祝いと品物の贈答習俗とに要約できるが,これら二つは元来密接に関係するものであった。【八朔と農耕儀礼】徳川家康が初めて江戸城に入った日として,八朔は江戸幕府の重要な祝日とされていたが,それ以前からこの日を祝う風はあった。『花園天皇宸記』によると,鎌倉時代後期の正和年間にはこの日に進物をすることが流行しだしていたことがわかり,『園太暦』によると南北朝時代には俗習とみなされながらも,貴族社会において主筋の人々に品物を贈与し返礼物をもらうことがすでに定着していた。貴族間にこの風を浸透させたのは武家社会の同様の風で,武家のあいだでは『吾妻鏡』の1247年(宝治1)の条にこのことを禁止していることからわかるように,鎌倉時代中期には八朔の贈答が一般化していたらしい。ただ,贈答物が何であったかはよくわからない。しかし,八朔が貴族社会に定着して扇子・檀紙などを贈っていた室町時代初期にも,この日をタノミまたはタノモと称し,かつては田の実すなわち米穀を贈答し合ったという伝承があったように,農村に基盤をもっていた武士達の八朔祝いの基本には,互いの新穀を贈り合い,食べ合うことがあったと思われる。現在の各地の八朔行事には,貴族社会の習俗や江戸幕府の祝日としての八朔の影響を受けたものも少なくないであろうが,その基になった農村部で成立していたものを直接継承しているものも多いと思われる。
【八朔と農耕儀礼】農耕に直接関わるものとしては,九州地方北部の作頼みのことがあげられる。福岡県甘木市屋永ではこの日を休日とし,自家の田のできばえを誉め,稲株を1株刈って庚申に供えて豊作を祈るとともに田に酒を撒くというが,類例は多い。本格的な収穫に先だち,稲を刈取って田の隅に掛けて祀ったり,家にもち帰って神々に供えて祝う穂掛けの儀礼も,かつては全国各地で行われていた。これらは稲穂のさらに実らんことを予祝するものであるとともに,新穀を神に献じて収穫を感謝するものであった。これらを行うところで,八朔を田の実の節供などと称して米の粉の団子などをつくって贈り合う風のあるのは,古くからの農村の八朔行事を受けつぐものであろう。八朔は二百十日と近接している。稲の穂ばらみのころに大風が吹いたのでは十分な収穫も見込めないとあって,各地では風日待・風祭りなどと称して神社に籠り,風害のなからんことを祈願している。鳥害を防ぐために,鳥取県各地には早朝主人が田ヘ出て「ホーハイ,ホーハイ」などと唱えながら鳥追いをするところもあった。また,八朔を農家の休日とするのは全国的であるが,さらに鬼節供などといって,暑い期間の昼寝の習慣をこの日で終わらせ,翌日から本格的なつらい農作業に取りかかる日としているところも多かった。このように,八朔は農家の重要な折り目と考えられていたのである。一方,何らかの贈答をすることも広く行われている。すでに述べた米の粉の団子を贈る例のほか,群馬県や埼玉県ではこのころ穫れる生姜をもって嫁が里帰りするところが多い。実家ではその答礼として箕をもたせて帰させるが,その理由として「しょうがない嫁だが,み(箕)なおしてくれ」との意だと戯れに解している。その解釈はとにかくとして,この機会に日頃懇意にすべき家と贈答を重ねておこうとの心意にもとづくものであろう。静岡県の一部では品物持参のこの日の嫁の里帰りを嫁節供といい,「親頼む子頼む日」というところもあった。かつての田の実の贈答が相互依頼を意識していたことを暗示させるものであろう。香川県をはじめ瀬戸内各地では八朔を馬節供といい,初の男児の出生した家では米の粉を練っていろいろな馬の形をつくり,飾り贈るところがある。男児に限るとか馬の形にするのは,かつての武家の風の影響を受けたものかもしれないが,それを米の粉でつくる点に,以前の農村の贈答習俗の継承されていることをみることができよう。