●パックス=ロマーナ
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ラテン語で「ローマの平和」ということを意味することば。一般にはローマ帝政期,とりわけ紀元l世紀末から2世紀末にかけてのおよそ100年間に,その支配のもとで確立された平和と安定の時代を指す。【五賢帝時代】“五賢帝”の世紀として知られる時代は,ローマ帝国の最盛期であった。フラウィウス朝最後の専制的皇帝ドミティアヌス(在位81〜96)の暗殺ののちに,元老院の長老ネルウァ(在位96〜98)が登位したときに始まる。彼の短い治世の後を,その養子であり初の属州(スペイン)出身の皇帝トラヤヌス(在位98〜117)が継承した。彼はダキア(今のルーマニア),メソポタミアの諸地方にたびたび遠征を企てることにより,帝国の版図を最大に拡げた。また,北アフリカ,アラビアなどの辺境地域の防備を固め,外敵の侵入を防ぐとともに通商路の安全を確保することに努めた。しかし一方で古くからの文化の中心地ギリシアや小アジアでは財政上の困窮が現れるなど,遠征や大土木建築事業の負担が帝国全体にしだいに重くのしかかってきた。そのため彼の後継者ハドリアヌス(在位117〜138)は対外的には国境の拠点沿いに防壁(リメス)を強化するなどで,攻勢から守勢に転じた。内政的には徴税の請負業者への委託を廃止,直接国家の管理下に置くことにより,財政基盤を固めていく。また騎士身分のものを中央政府の中枢に登用し,統治機構の活性化をはかった。彼の後を継いだアントニヌス=ピウス(在位138〜161)の時代は,この当時ローマでなされたアリスティデスの『ローマ頌詞』が示すごとく,平穏で安定した時代であったが,その養子マルクス=アウレリウス(在位161〜180)のころより帝国に危機が訪れる。メソポタミアおよびドナウ方面から相継いで外敵の侵入があり,この間,東方よりもたらされた疫病が蔓延,人口は激減した。彼が遠征先のウィーンで病没し,養子を後継者に立てたこの時代の慣例を破って実子のコンモドゥス(在位180〜192)が即位したときには,長期にわたる戦役のため国庫は窮乏,彼の無能さと相まって安定の時代は終焉する。
五賢帝時代には,地中海世界の都市化が絶頂に達した。諸都市は大別して上から“植民市”,“自治市”,“自由市”,“貢納市”といった格づけをされ,その上昇を競いあった。属州各地には,トラヤノポリス,ハドリアノポリスのような皇帝の名を冠した都市が出現した。ドナウ川流域や北アフリカ内陸部のような遠隔地にさえ,軍隊の宿営地を中心としてかなりの規模の都市が発達をみた。それらのほとんどは,広場・上下水道・市場・公共浴場・神殿,体育場・円形闘技場などを備えた,宏壮で綿密な都市設計にもとづいて建設された。また有力市民からなる都市参事会が市の役職者を選出し,公共物の管理や祭儀の主催とそれに伴う出費を引き受けることで実質的には市政の担い手となったが,その重い負担はやがてこの階級の没落を導いていく。
【繁栄】経済的にも,商工業の発達がこの時代を特徴づける。通商圏は地中海を越えて拡がり,遠くバルト海,インド方面におよんだ。とりわけインドとは,古くからの陸路によるほか,前2世紀末には季節風を利用した海路による直接交易が開始され,インド方面からは没薬・胡椒・象牙・絹などがもたらされ,ローマからはぶどう酒・銅・錫・金・銀などが輸出された。帝国内部では道路網が隅々まで整備され,各地の特産品はこの上を,また海路を通って遠方へと運ばれた。この時代特筆すべきは,ガリア(今のフランス)での商工業の発展である。この地の陶器やガラス製品はやがてかつての主産地イタリアの製品を圧倒していくが,ガリアに限らずほかの属州へ生産の中心が移っていくこの傾向は,イタリアの経済的没落をもたらし,最終的には帝国全般の経済不振を導いた。
辺境防衛の出費の増大,都市中産階級の没落,傾向としての経済不振といった問題を内に抱えつつ,表面的には平和と繁栄を享受していたこの時代は,その意味でのちに苦難の時を控えての「小春日和」であった。