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●八幡信仰 はちまんしんこう

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 大分県(豊前国)宇佐市の宇佐神宮(八幡宇佐宮)に発生した信仰で,わが国神社信仰では最も普及したが,その発生発達は複雑で,明治以来諸説が出された。彦火火出見尊,僧侶のつくった神,八流の幡を立てて不動安鎮法を修する神,仏教を外来神とする神,巫女神,神武天皇,鍛冶神,海神,母子神,幡を立て祭る鍛冶神,秦氏の神,ヨンドルハルマン神地名ヤハタ神,焼き畑の神などがあった。

 しかし,八幡宮の宗教儀礼からみると,豊前国北部(田川・仲津など)を中心とする祭祀集団(トヨ国)と,南部(宇佐・下毛など)を中心とする祭祀集団(ヤマ国)によって成立している。もしこれが古くから合体した祭神だとすれば,築城郡綾幡郷あたりで,ヤハタ神といわれたかも知れない。事実この祭祀集団から5世紀には豊国奇巫が,6世紀には豊国法師が医師巫僧として参内している。縁起によると571年(欽明32),宇佐に奇異がおこり,大神比義が之を祈ると3歳の小児が竹葉に現れて,誉田天皇の霊と記宣したという。縁起ではここに始めて「八幡神」と現れるがその後,705年(和銅5)までまったく史料に現れない。これについては〈国々に潜通し,処々に瑞を留め未だ霊社をつくらず〉と『宇佐詫宣集』5巻にある。この間,日韓のあいだには43件の事件があり,任那問題では必死に正常化を謀っていた。日本の神になったという,八幡神の名の下に豊国法師(道士的巫僧)が懸命に地下工作をしていたのではあるまいか。この功に報いたのが法隆寺様式の3カ寺の白鳳寺院で,分離された神は705年の官社八幡宮となったのではあるまいか。

 八幡神は716年小山田社に移り,720年(養老4),日向大隈隼人の鎮定に参加,725年,現社地に中国の道観的社殿をつくった。731年(天平3),応神天皇に上申とあり(『住吉大社神代記』)初めて官幣に預り,733年,比売神(三女神力)が祀られた。737年(天平9),新羅の無礼を告げ(続紀),翌年在地に弥靭寺が移り,宮寺形式となる。740年,広嗣の乱により初めて封戸20戸を奉り,741年,「八幡神宮」に,経典・度者・三重塔などが奉られ(続日本紀)神仏一体の様式を示し,以後聖武天皇の祈請を度々うけ,東大寺大仏造立に大きく貢献,八幡神に一品,比売神に二品,会計1,400戸を施入,一躍最大の神社になり,以後国家の大事に関係し,弓削道鏡の天位の野望を退け,天位に決定的力を示した。

 早くから,道教,仏教と習合していたので781年(天応1),護国霊験の大菩薩号が贈られ,神像をつくり沙門系円頂の僧形を表し,大悲闡提の菩薩として衆生のために成仏しない決意を現した。最澄,空海は八幡神に接近し寺院鎮守勧請が盛んになるころ,820年(弘仁11),神功皇后を併祀し八幡宮は完成した。最澄より天台僧に親しまれ,金亀は827年,豊後に由原宮を勧請し,宮寺様式を完成させた。この影響を受け860年(貞観2),行教は男山に石清水八幡宮を勧請した。このころから,応神天皇,神功皇后の神格が強調され,王城鎮護の神として皇室の崇敬を受けて,皇室の大祖,第二の宗廟として崇められるようになった。

 その後清和源氏は八幡神を氏神とし,関東・東北にまでも伝播するようになった。1192年(建久3),鎌倉幕府が開かれると,鶴岡八幡宮が武士の崇敬を集め全国的に勧請された。

 宇佐では神功皇后併祀のころから若宮が創祀され,聖母子神の信仰が現れ,聖母,神母,母子神信仰が広がり,民衆に強い支持を受けた。この信仰は,比売神・若宮と結び付き山岳信仰にも融合し,やがて八幡大菩薩に対して神母=人聞(にんもん)菩薩という新しい信仰を生み出し,一般民衆にかたい信仰が生まれた。その本山ともいうべき寺が,豊後国(大分県)国東半島に成立した六郷山寺院で総称を六郷満山といい,その信仰はいわば六郷山修験道である。六郷山では比売神と若宮を六所権現と呼び,その信仰は,安産・生産・農耕など広く庶民の願望にこたえて大衆に浸透していった。

 しかし,全国的八幡信仰は応神天皇を中心に,神功皇后,仲哀天皇などと組み合わされたり,相殿神となって広まり,現在八幡宮に関係する神社は日本各地で四万余社がある。

〔参考文献〕宮地直一『八幡宮の研究』1956,理想社

中野幡能『八幡信仰史の研究』1967,吉川弘文館

同編『八幡信仰』1983,雄山閣

同編『宇佐神宮史』史料篇1984,宇佐神宮

同著『八幡信仰』1985,塙書房