●八丈島 はちじょうじま
アジア 日本 AD
伊豆諸島南部にある火山島。東京の南方約300kmにあり(東経139度50分,北緯33度5分),西にある八丈小島とともに東京都八丈支庁に属する。面積は69.1平方kmあり伊豆七島中では大島に次ぐ第2の島で,人口約1万人(1980)である。1954年に5村が合併して八丈村となり,1955年に2村を編入して八丈町となった。島の輪郭は繭形をしており,北西〜南東方向に約14km伸びている。北西に西山(854m)があって八丈富士と通称され,南東に701mの東山(三原山)があり,この両山のあいだの傾斜地と平地が島民の生活の中心で,大賀郷と三根の両部落や空港がある。東山は古い多重式死火山で,直径4kmの円形カルデラをもつが,噴火の記録は残っていない。西山は円錐形の成層火山で,歴史時代に活動の記録が多く,1487年(長享1),1518年(永正15),1522〜23年(大永2〜大永3),1605年(慶長10),1707年(宝永4)など,たびたび噴火を繰り返している。気候は温暖多雨の亜熱帯性で,年平均気温は18.1度(8月26.6度,1・2月10度),年平均降水量は3,284mmに達する。島の80%は森林で,シイ,ツバキ,タブ,サカキなど常緑樹が繁茂している。黄色の地に鳶・茶などの縞を表した絹織物である黄八丈はこの島の特産であり,この名に島名が由来していると思われる。古くは女護島と称されたり,〈鳥も通わぬ八丈ガ島〉と歌われ,政治犯や犯罪者の流刑地として知られた。事代主命にまつわる伝説があるが,とりわけ保元の乱(1156)に崇徳上皇方につき,敗れて伊豆大島に流されて伊豆諸島を攻略したとされる弓矢に長じた豪勇無双の武将,源為朝(鎮西八郎)と本島にまつわる伝説も多い。備前岡山城主で五大老の一人でもあった宇喜多秀家が,関ケ原の戦いで西軍の謀主となり家康に敗れて1606年(慶長11)に流謫され,約50年ののちに生涯を閉じたのもこの島である。北の御蔵島とのあいだを黒潮の本流が流れているので,方言や住居にも御蔵島以北の伊豆諸島と比べて,民俗学上からもかなり独特なものがみられる。高い防風石垣や急傾斜のかやぶき屋根に特色があるが,とくに穀物貯蔵用の高倉式建築はかつては各戸にあって家格によって異なる柱の数や種々のねずみ返しに特殊性があったものの,今では影をひそめてしまった。
島の産業を支えているのは,自然環境をたくみに利用して,明治以降面目を一新した農業である。温暖な気候を利用して,清浄野菜・促成野菜の栽培,観葉植物や球根類栽培を主とした熱帯性園芸農業が活況を呈している。フェニックス,フリージア,ロベニ,ケンチャヤシ,マランタ,パイナップル,バナナ,ゴムそのほかの香料植物が移出されている。一方,水産業ではトビウオ,カツオ,ムロアジ,クイ,テングサなどがおもなもので,カツオ節・くさやなどの加工品も生産されているが,大形漁船を欠くために水産業は一般にふるわない。島内の生活は,1953年に離島振興法の適用をうけて以来,道路・電気・水道などの諸事業が整備されている。港湾施設も西岸に八重根,東岸に定期旅客船が接岸可能な神湊の2港がある。これからの島の産業にとって有望なのは観光である。南国情緒あふれる海や島の景観とその自然を利用したマリーン=スポーツ,流人や漂流者の無縁仏,梅辻規清の墓,八丈役所跡,近藤真守の墓,陣屋跡などの史跡,特産の黄八丈工場見学,名物の牛角力,樫立踊,太鼓ばやしや雄大な八丈富士の景観などが人々をひきつけ,近年観光客が急増している。これに合わせて,ホテルの建設,温泉のボーリング,観光植物園の造成などが進んでいる。島内には町営バスが走り,道路が整備されて自動車の数も多い。交通路も,東京・名古屋からの定期航空便のほか,東京からの定期航路が開かれている。